違和感を持ったことについてちゃんと書いていく作家でありたい―辻村深月さんブクログ大賞受賞記念インタビュー後編

辻村深月さんブクログ大賞受賞インタビュー前編

こんにちは、ブクログ通信です。

『かがみの孤城』で「2018年本屋大賞」に続き、第6回ブクログ大賞小説部門大賞を受賞された辻村深月さん、インタビュー後編(前編はこちらから)をお送りします。

前回は『かがみの孤城』が完成するまでの経緯から、影響を受けた作品、マンガ、アニメ、ゲームへの想いについてなどをうかがいました。今回は、辻村さんが「学校」という場所について思うことや、劇場版ドラえもんの脚本についてもお聞きしました。ぜひお楽しみくださいね。

「あなたの今いる時間が未来の大人のあなたにつながっている」というメッセージ

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「どれだけ積み重ねられても伝わらないものが、物語の形になることで理解できることってある」

―さきほどまでのお話の「絶対的な正しさ」はないこと、多様性があるんだということは、「学校に行かなくていい」というメッセージにも繋がる気がします。そのメッセージを込められた本が、ここまで多くの人に読まれているということの背景には、皆、それぞれ学校に思うつらさがあるのかもしれないですね。

そうですね。私はこの本を、「子どもとかつて子どもだったすべての人に」向けて書いたと思っているのですが、それはやはり、子ども時代の感じ方に世代の差はないと思っているからです。教室の窮屈さや、大人に対しての不信感。それはたぶん、どんな大人も経験してきたことだけど、自分たちが大人になると忘れちゃうんですよね。

子どもにとったら未来ってすごく遠いことのように思えてしまうので、「今の自分の時間が大人につながってる」って、なかなか実感できないと思うんです。私もそうだったし、「未来」や「大人」の自分って、今の自分とは全然違う誰か別の人になるような感覚でしたから。

だけどいざ大人になってみれば、中学時代の自分と、今の自分が地続きのものだということがよくわかる。なので、この本を読んでくれる子どもに対しては、あなたの今いる時間が未来の大人のあなたにつながっているんだっていうことを、この話を通じて伝えたかったのかもしれない。

―この『かがみの孤城』の設定をひとつの寓話としてみたときに、これは、辻村さんが、中学時代に本が好きで、本を沢山読まれていく中での経験が物語化されているようにも感じたんです。本を読むことが、すなわち物語の世界へ冒険に行くこと。こころたちが『孤城』に行く経験と重なって感じられます。

本屋大賞の受賞の時にもお話ししたことなんですけど、中学時代、居場所がないように感じた時、私の部屋の鏡は光らなかったけれど、その代わり傍らにあってくれたのが本の世界でした。本が入り口になって、さまざまな場所に行くことができたし、何より、他の人の人生を生きるという経験をさせてくれた。

本って、たとえばその物語の主人公が300年前の人物として設定されていても、今の私たちでも気持ちを寄せて読むことができるし、逆に300年後の未来にもきっと自分たちと同じ感情の営みが続いているはずだって信じられるものだと思うんです。自分とは違う年代とか、違う世界、違う文化を持った人たちのことも、物語のかたちで読んだら理解ができるということがありますよね。

「こんなに大勢の人たちが苦しんでます」「こんなに悲惨なことが起こりました」という事実の報告や数字がどれだけ積み重ねられても伝わらないものが、物語の形になることで、ストンと理解できることってあると思うんです。そういうことを、小説を通じてこれからも書いていきたいです。

―よくわかります。

『かがみの孤城』は、読んでくれた子たちが、自分の親とか先生に勧めていたり、その逆に親や先生が先に読んで、子どもに勧めたりっていうことが、両方あるみたいで、それがすごく誇らしいんです。大人と子どもが、それぞれの立場から薦め合ってくれる。そういう話を聞くたびに、「これよかったから読んで」って言って渡せる大人とその子の信頼関係みたいなものが見えて、感想を聞くのもすごくうれしかったです。

―ああ、いいお話ですね。この『かがみの孤城』の登場人物でいえば喜多嶋先生にはこの本を勧めるかもしれない。

ただ実は、その一方で、悪い意味での「大人の薦める本」にはなりたくないという思いもあります。私自身もそうだったからよくわかるけど、大人が思う「読書の好きな子ども」って、勉強ができる子になってほしいという願いとセットなことが多い。勉強のための本とか、何かの役に立たせるための読書じゃなくて、あくまでも娯楽として読んでもらえたらうれしいです。私は昔から、「いい本はこれ、悪い本はこれ」と、大人に決めつけられるのが嫌だったし、自分の好きなゲームとかラノベを理解しない大人が薦める本がおもしろいわけない、と思ってた。あくまで、自分の感性で選び取って読んでほしい。勧められた子たちが「大人のくせに辻村深月を勧めてくるなんてやるじゃん」て思ってくれたら光栄ですね(笑)。

―最高の評価ですね。

大人の感性の方が子どもより鋭いなんてことも絶対にないと思うんです。むしろ、子どもの感性のほうが、圧倒的に鋭いし面白いものに敏感で正直。その子たちの最先端であれたら、とてもうれしいですね。

大人として考えること、大人として試みたこと

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「複雑なことをちゃんと複雑なまま描き、違和感を持ったことについてちゃんと書いていく作家でありたい」

―今おっしゃられている、ある種の決めつけをしてしまうような大人の鈍感さって、そもそも学校制度自体が鈍感な仕組みでできていることとつながっているような気がします。まだ心が柔らかい時代に、自分と違う、わかりあえない相手とのファーストコンタクトをするのも学校という場であることが多い。

そのあたりも私が大人になったから書けた部分が大きいです。デビューしたばかりの20代の頃は、やっぱりまだ気持ちが圧倒的に子どもの側に近かったんです。「どんな人とでも話せばわかり合える」という考え方がずっと刷り込まれてきていて、物語もそういうところに帰結しなきゃいけないんだという気持ちが無意識にあったと思います。
だけど、自分自身が大人になってみると、合わない人とは合わないし、無理をしてすべての人を好きになる必要がないこともわかってくる。大人になって、胸を張って子どもたちに「わかり合えない人はいます」と今は言えるし、それには大人も子どもも関係ない。無理にわかり合わなくていいし、嫌いって思っていい。学校では誰もそんなふうには教えてくれないだろうけど、学校の外側で、この本を開いて知ってもらえたら、うれしいかな、と思っています。

―なるほど。

逃げることも学校を休むことも、時には必要だけど、けれど、逃げた後どうしたらいいか、自分にとって一番いい道があるはずだと考え続けることからは、今度は逃げないでほしい。そんな覚悟で、私も必死にこころたちのことを考えていた気がします。

デビューしてすぐの頃は、大人が理不尽な行動をしてきた時には「大人め!」と闘うような気持ちで書いていましたが、今はどこか「大人がごめんね……」と謝るような気持ちで書いている。それも私が大人になったからなんだと思います。ふがいない大人だけど、困ったことがあれば頼ってほしい、というような。

かつて子どもだった者のひとりとしては、子どもがいかに「大人に頼らない」と決めて、自分たちの世界を生きているかもよく知っているつもりでいます。だけど、それでも、困ったり、逃げた先でこれからどうしたらいいんだろうかと考えた時に、大人の手を借りることや、大人に相談することを躊躇わないでほしいんです。子どもが一人一人違うように、大人も一人一人違う。一人の大人に拒絶されたとしても、次の人は助けてくれるかもしれないし、気持ちをわかってくれる人は必ずいると思います。『かがみの孤城』がこんなにも読んでいただけたのは、これが子どもたちだけの話ではなくて、その周りにいる大人を巻き込んだ話だったからだと思うんです。

―この作品は、主人公の中学生たちがいわゆる若い世代として一致団結して、大人や上の世代と戦うとかではなく、ジェネレーションの中の分断があって、それは大人の方も含めて分断があって、こっち側とあっち側とわかれている。あっち側の話はわからないし通じない。そういう場合は切り捨ててもいい。そこを切っても、こっち側にあなたの味方がいるんだ、ということが描かれていますよね。そこでは大人たちとも年齢を超えてちゃんとわかり合える世界がある。一方で、わかり合えない世界もある。だから、世代や性別や出生などの安易なラベルで分類せず、本当に理解し合える人たちを大切にしていこう。だけど、全ての人たちと仲良くなることに疲弊する必要はないと伝えているのかなと。

そうですね。すべての人と仲良くする必要はないけど、「自分にとって誰が大事」「何が大事」ということだけは大切にしてほしいと思います。危機に直面した時に、心の中にしがみつけるものを持っている人は強いと思うので。

ただ、作中でこころを攻撃してきた真田美織ちゃんや担任の先生のことも完全に悪にはしたくなかったんです。こころにとって、彼らはとても無神経な行動を取るけれど、たとえば真田さんに何かつらい現実があった時にはそれを救うのはあの先生になるかもしれない。こころがわかりあえないからといって、彼らがすべて悪人かというとそうではないと思っています。ただ、見えている世界が違う。

―なるほど。そこは大事ですね。

彼らには彼らの居場所があって、こころにはこころの居場所がある。その2本の線を交差させて無理にわかり合わなきゃいけないということはないと思うんです。相手が違う、ということを認めたり、あきらめることが、自分を守ることにつながることもある。現実の大人の社会でもままあることだと思います。

―ほんとにどうしてこの人とは全然話が合わないんだろうみたいな人は大人にも大勢いますからね。

ちょうど、私の最新刊が『噛み合わない会話と、ある過去について』というタイトルの本で、まさにそのあたりのことを書いています。同じ体験をしたはずなのに、見ているものがあまりに違いすぎて、会話が噛み合わない。「対岸の思い出」とでもいうべきものを、教師と生徒とか、母親と子どもとか、いろんなシチュエーションで描いた短編集です。

『かがみの孤城』とはまったく違う話ですが、日常的に思う違和感を流したりせず、ひとつひとつ、複雑なことは複雑なまま描くということは共通しているかもしれません。違和感を持ったことについては、ちゃんと書いていく作家でありたいなという風に思います。

「いじめ」という単語を使わずに示したかったもの

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「いろんな人に対してフェアに書きたいという気持ちがありました」

―この孤城の登場人物たちにしても、噛みあう噛み合わないではなく、やっぱりそれぞれ異質な部分を持ち続けていて、だけどそのもっとなんていうんですかね、共感というかたちでの、もっと地下水脈で通じ合える人たちっていう感じがいたしました。

こころを追い詰めたクラスメートの真田さんも、ひょっとしたら、城の中で出会っていたら仲良くなれたかもしれないし、逆に、こころがアキと現実の世界で会っていたら、バレー部の先輩に怖く威圧されたっていうことだけで終わっていたかもしれない。誰が悪で誰が善という描き方ではなく、いろんな人に対してフェアに書きたいという気持ちがありました。どの小説でも、そうなんですけど、作者の都合で「悪人」は出したくないんです。主人公にとって「悪」だと思える人でも、彼らなりの正義がきっとある。特にここ数年はそういう気持ちが強くなりました。

―確かに「話が合わない」っていうだけで、それが「悪」としては描かれてはいないですね。鈍感さという形で出てきますけれども、「通じない」というかたちで現れています。

『かがみの孤城』では、なるべく「いじめ」という単語についても使わないで書きたかったんです。言葉って、あるととても便利なので、みんなが「ああ、あれね」と理解できてしまうんですが、現実の中学生たちにとっては、メディアでいわれる「いじめ」と、自分たちのクラスで起こっていることって必ずしも結びつかない。無視や仲間外れがあっても、そんなに大袈裟なものじゃないって思う感覚の方が圧倒的だと思います。

―なるほど。よくわかります。

「いじめ」という言葉のイメージが強いので、している側にとったら、メディアで報じてるものと違って、「肉体的な暴力をふるってないから違う」とか、「クラス全員でやっているわけじゃなくて、せいぜい2,3人の間のことだから違う」と思いたいものだと思います。された側にとっても、「いじめ」と言われた瞬間に自分が弱い子だと言われたように思えて、なかなか認められない部分も出てくる。言葉がついた瞬間に、当事者が誰もいなくなってしまうんです。

―よくわかります。実際それぞれがそういう心理的な処理をしがちですよね。

「いじめ」という言葉は、やはり、大人が介在したときに処理しやすくラベリングするために出てくる考え方だと思うんですよ。作中でこころがされたことも、大人たちから見れば「男の子関係のことでもめたみたいです」という一言で、大雑把に括られてしまうかもしれない。けれど、中学生たちの日常についてきちんと描こうと思うんだったら、起こったことを容易な一言でまとめずに、複雑なことを複雑なまま描く必要があるんです。それこそ、何百ページも必要だけど、それができるのが小説なんだと思います。

―なるほど。

一つの言葉って、できるとすごく便利なんですよね。「いじめ」という言葉を使わず、たとえば「交友関係を苦にして」という言い方だけだと、やっぱり伝わらないものも出てくる。「交友関係」だけだと伝わらない過酷さが「いじめ」だと言われたら、たちどころに理解できる。でも、言葉が一回定着してしまうと、今度はその中にある「個別の痛み」とか、「個別の事情の複雑さ」が、どんどん薄れていってしまう。

私は、小説とか物語は、そうやって一度言葉でラベリングされたものを、解体して再び一つの「痛み」に、一つの「彼女にあったこと」というものに戻すことができる一番有効な手段なんだと思うんです。なので、これからもそういう小説を目指していきたいです。

「私もこころだったんです」―自分の経験を表現するきっかけになる作品

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「子どもの目で見るからこそ、大人側とか、彼らが抱える社会の問題も見えてくる」

―まさにこの作品が、ほんとにそれを形にされたのだなと思います。1ワードで済まされていたことを、もう10万字使ってでも、その襞を説明されようとした。その襞が細かく書かれることで、こころの置かれている「現実」がよくわかります。

ありがとうございます。

―こころだけじゃないですもんね。みなそれぞれ。

子どもの目で見るからこそ、大人側とか、彼らが抱える社会の問題も見えてくるようなところもありました。学校や不登校に関するそれぞれの親たちの在り方にも、結果としていろんなものが反映されているように思います。

うれしいのが、実際に不登校だった経験を持つ読者の方から、「忘れているだけで、私も孤城に行っていたのかもしれないですね」という感想をいただくことが結構あるんです。そのたびに本当に書いてよかったなと思います。みなさんそれぞれの中にある、現実の自分のストーリーに、こころたちを深く共鳴させて読んでくれている。

―学校は苦しいと今思っていたり、今後苦しくなるかもしれないと不安を抱えた子たちになにか予防接種のような、ワクチンのようなかたちで、接種できた小説なのかもしれませんね。これだけ感想が拡散するのも、『かがみの孤城』が今の時代に対して重要な、必要なワクチンだったことを示しているのかもしれませんね。

そう思ってもらえると、うれしいです。「いじめ」という言葉だけでは汲み取れないものがたくさんある、と思って書いた小説ですが、今年みなさんから言っていただいた言葉の中に、「私も『かがみの孤城』みたいなことがあって」とか「私もこころだったんです」とか、そういう言い方をしてもらえるものことが増えてきたんです。『かがみの孤城』があることで、表現できる思いや事柄が出てきたのだとしたら、とてもうれしいです。

―小説の、文学という歴史の中で「名作」と呼ばれ、今も残るものっていうのは、その時代か「その主人公が私である」っていうものですよね。なので、そういうかたちでこの時代を代表する作品になられたのかなと思います。今回、ブクログ大賞が8冠目というかたちになりましたが、まだまだ波及していく小説だと思います。

ありがとうございます。

これからのこと―劇場版ドラえもん脚本執筆について

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「藤子先生のお手伝いができるなら、それはとても光栄なこと」

―さてこれからの活動についてお伺いしますが、まずは「映画ドラえもん のび太の月面探査記」映画脚本を担当される、というニュースがありましたよね。

そうなんです。

―驚きましたけれど、辻村さん以外いないだろうとも思えました。

ずっと大好きだったので、クリエイターとしてかかわるのはあまりにもおこがましいという思いがあって、それは今もそうですね。できたら一生、ただ見守るだけでいたかった。もう、お受けしてしまいましたが(笑)。

―一度辞退されたということもニュースで報じられていましたね。

5年ぐらい前に、一度藤子プロさんからお話をいただいて、そのときはあまりにも恐れ多いし、ずっとファンでいたいという思いを伝えてお断りをしたんです。けれど、その後も藤子プロさんが、すごく大事に関係を続けてきてくださって。その中で、藤子先生のご家族にお会いしたり、アシスタントをされていた方たちからお話を伺う機会があって、藤子先生って本当にいらしたんだ、という当たり前のことがだんだんと実感できるようになったんです。先生の熱意や知識が投影された漫画をずっと読ませてもらってきたんだなぁと、改めて感謝を覚えました。

―そうなんですね。

ドラえもんの映画って、毎年の春の風物詩みたいに、あるのが当たり前の存在になっていますよね。でも、映画を作られたスタッフの方とか、あとずっと藤子作品を大事に守ってきた藤子プロの皆さんとお話をしていたら、実はそれが当たり前じゃないことがわかるようになったんです。みんな一年一年当たり前に送り出してるわけじゃなくて、みなさんが今年もどうにか来年に繋げられたという気持ちをもって、一年一年本気で取り組まれてる。

だとしたら次の年に繋げるお手伝いを、自分がする年があってもいいんじゃないかなと思えてきたんです。藤子先生の作品と出会ったからこそ、『かがみの孤城』の、この少し不思議な世界観が生まれたり、今と同じかたちの私の小説がある。藤子先生からいただいたものを藤子先生にお返ししたいという気持ちで、思い切ってお受けすることにしました。

ドラえもん達も新たな冒険にわくわくしてるはず―「原作の続き」を書くために

―辻村さんの作品の中には、『凍りのくじら』という、章タイトルをすべて『ドラえもん』のひみつ道具にした、藤子先生へのダイレクトなリスペクトを綴る小説もありますが、それを書いたときとは、やはり心境は違いますか?

それはもう全然違います。藤子先生がいらっしゃらなくなったあと毎年オリジナルで作られてきた映画作品はやはり、「原作の続き」ですから。恐れ多いです。それは書き終えた今もそう思います。

最初はどうしていったらいいか、まったくわからなかったし、自分が書いてしまっていいのかとためらう気持ちもありましたが、そんなときに、藤子先生のチーフアシスタントをされていた、むぎわらしんたろう先生からメールをいただいたんです。「映画ドラえもん、楽しんでください。ドラえもんたち5人も、新しい世界に冒険に行けることにきっとわくわくしてるはずですよ」って。その言葉に勇気づけられて、ならば、ドラえもんたちと冒険を楽しみたい、という気持ちになりました。むぎわら先生が「ぼくの仕事は、今も昔も先生のお手伝い」と書いてくださったことにも感動しました。私の今回の脚本についても、先生のお手伝いができるなら、それはとても光栄なことだと。

―ものすごく思いのこもったお話、本当にありがとうございます。その5人の新しい場所での活躍、たいへん期待しております。次作の小説も期待しております。本日はどうもありがとうございました!ちなみに今日のお洋服はドラえもんカラーですね。

ドラえもん好きのせいか、確かに青い色の服を選ぶことが多い気がします(笑)。

辻村深月さんサイン本
最後に、サイン本を作っていただきました!

辻村さん、ありがとうございました!『かがみの孤城』だけでなく、辻村さんの深く鋭い観察眼や、小説への姿勢、またドラえもんについての熱い想いをうかがうことができました。みなさん、ぜひ『かがみの孤城』をまた再読してみてくださいね。そして「映画ドラえもん のび太の月面探査記」もお楽しみに!

また、第6回ブクログ大賞小説部門受賞記念として上記画像の辻村深月さん『かがみの孤城』貴重なサイン本を1名様へプレゼントいたします!ふるってのご応募お待ちしております!

辻村深月(つじむら・みづき)さんについて

1980年山梨県生まれ。千葉大学教育学部卒業後、2004年『冷たい校舎の時は止まる』で第31回メフィスト賞を受賞しデビュー。2011年『ツナグ』で第32回吉川英治文学新人賞、2012年『鍵のない夢を見る』で第147回直木三十五賞、2017年『かがみの孤城』で「ダ・ヴィンチ ブックオブザイヤー」1位、王様のブランチBOOK大賞、啓文堂書店文芸書大賞などをそれぞれ受賞。本屋大賞ノミネート作も数多く、2018年に『かがみの孤城』で第6回ブクログ大賞、第15回本屋大賞を受賞。
他の代表作に『子どもたちは夜と遊ぶ』『凍りのくじら』『ぼくのメジャースプーン』『スロウハイツの神様』『名前探しの放課後』『ハケンアニメ!』『朝が来る』など。新作の度に期待を大きく上回る作品を刊行し続け、幅広い読者からの熱い支持を得ている。2019年3月1日公開予定の『映画ドラえもん のび太の月面探査記』で映画初脚本を担当する。

辻村深月さんのブクログ作品ランキング

参考リンク

かがみの孤城 辻村深月 | ポプラ社
祝!本屋大賞受賞『かがみの孤城』辻村深月さん「子どもとかつて子どもだったすべての人に―」
本屋大賞
「映画ドラえもん のび太の月面探査記」

関連リンク

[2018年11月29日]学校に行かない中学生たちを描くために―辻村深月さんブクログ大賞受賞記念インタビュー前編
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