WEB本の雑誌「作家の読書道」寺地はるなさんインタビュー

その3「使わなくなった言葉、本の購入基準」

―高校時代はどうでしょう。

寺地:高校1年生の時に、担任の先生がまあまあ本の話をしたがるというか、自分が読んで良かった本をものすごく生徒に推してくる先生だったんです。

―国語の先生だったのですか。

寺地:いえ、体育の先生です。珍しいですよね。いい先生で、三浦綾子の『塩狩峠』を強引に推して、夏休みの課題図書にするくらいで、それではじめて読みました。『塩狩峠』ももちろん良かったんですけれど、私は『泥流地帯』が衝撃的でした。

北海道の貧しい兄弟の話なんですけれど、弟のほうがすごく勉強ができるのに、貧しくてお金がないから賢い子たちが行ける学校にいけない。それで故郷の村で学校の先生になるんですけれど、噴火が起こって村全体が土砂に飲み込まれてしまうんです。兄弟は生き残るんですけれど、他の家族は死んでしまって。これは『続 泥流地帯』もあって、その災害から立ち直るまでも書かれるんです。つまり『泥流地帯』は災害に遭うところで終わりなんですよ。幼馴染みの女の子が女郎屋に売られたりして散々苦労して、辛い辛い辛いで、最後にめっちゃ辛いとなって終わるんです。すごく辛いんです。

―衝撃的だったというのは…。

寺地:自分が当たり前に「そういうものだ」と思っていたことでも「本当にそうなのか?」と気づかされるという、驚きがいっぱいあったんですね。たとえば、「日頃の行い」って言葉はある意味すごく残酷なことだっていうことがずっと書かれてある。災害に遭った後に、ちょっと被害が少なかった地域の人が、私たちは日頃の行いが良かったから家族も畑もあまり被害を受けずに無事だった、みたいなことを言っていて怒りをおぼえるシーンがあるんですけれど。何気なく使われる言葉だけれど、じゃあ、災害で死んだ人は日頃の行いが悪かったのかというと、全然そんなことじゃないですよね。だからこれを読んで、ああその通りだなと思って。それ以降、「日頃の行い」という言葉を使わなくなりました。

―ああ、本当にそうですよね。他に高校時代に読んで印象に残っているものは。

寺地:やっぱり山田詠美さんですね。聖書のように持ち歩いていました。とにかく文章がきれいだなと思って、もう暗唱できるくらいに読んでいました。高校生だったのでやっぱり『放課後の音符(キイノート)』とか、『風葬の教室』とか『蝶々の纏足』といった、学生のお話が多かったですね。

―ちなみに、高校生になってもまだ、親から隠れるように読んでいたのですか?

寺地:そうです。山田詠美さんは恋愛を書かれているから、「そんなの読んで」みたいに言われて馬鹿にされると思いましたし。

―高校を卒業されてからは。

寺地:ぶらぶらしていました(笑)。バイトしたり、パソコンの教室に通ったりして、20歳の時にようやく就職するんです。でも、まあ20年前の話ですが、給料がすごく安くて、月に10万円切るくらいしかもらえなかった。だからその頃、全然本も買ってないと思うんです。で図書館には行っていました。仕事を始めてからは、昼休みに本が読めるし、その頃には自分の部屋があったので、部屋で本が読めるので、それがちょっと嬉しかったですね。

その頃、図書館で偶然、姫野カオルコさんの本を借りたんです。『喪失記』でした。それがすっごく面白かったんですよ。それで姫野さんの本を読んでいたら、エッセイとかあとがきに「小説は儲からない」「本を買ってもらえないと次の本が出せない」みたいなことが書かれてあって、それで「あ、買わなきゃ駄目なんだ」と思って、そこから無理をしてでも本を買うようになりました。好きな作家の本が読めなくなったら自分が困るわと思って。

―いい話。

寺地:でも、だいぶ前に死んだ人が書いた本は借りて済ませてました(笑)。『嵐が丘』とか。でもそれも、買えば出版社や翻訳者の利益になるんですよね。今はもちろん買うようにしているんですけれど、当時は死んでいるか死んでいないかが、買うか買わないかの分かれ目みたいになっていて。

―本を買う前に著者の生存確認をするという(笑)。いまぱっと『嵐が丘』の書名が挙がったということは、面白かったということでしょうか。

寺地:そうですね。ヒースクリフやキャサリンについて、家政婦さんみたいな人が喋っているのを「私」が聞いているので、すごく変わった形式で書くなあと思って。そこが面白かったですね。でも海外の小説はそんなに読んでいないかもしれません。とりあえず有名なものは読んでおけ、くらいな感じで。

―その頃は作家を志していたわけではないですよね。有名なものを押さえておこうと思ったのは、名作なら外れがないと思ったからなのか、それとも教養として読んでおきたいと思ったからなのか…。

寺地:単純に、一般教養みたいな感じで読むものだと思っていました。高校生くらいの時から、自分のことをすごくあほなんやと思うようになってきて。だから知識を身に着けたいけれど、でも今からまた学校に行くのは無理かなと思い、だったら本とか読んでおこう、という。だから、みんな普通の人は『嵐が丘』を読んでいるだろうと思っていました。そういう有名なものを読んでおいたら、人とも話ができるやろ、くらいに思っていた気がしますね。

―では、他に読んだ海外の名作といいますと。

寺地:『ボヴァリー夫人』とか。なぜか『ロリータ』とか。ガイド的な人がいないから、書店で見つけるしかないんですよね。インターネットも今ほど使い勝手がよくなかった頃だし、田舎の書店って新潮文庫の棚はあるけれど他はあまりないところが多いので、その頃に読んだのは新潮文庫の割合がすごく多いですね。どういうのが面白いのか分からないので「なんとなく」とかタイトルが格好いいとかで選ぶしかなく、自分の好きなタイプの作家とか小説に会うのは遅かったです。川上弘美さんとか知ったのは20代後半でした。

―たまたま何かを読んでみて、いいなと思ったんですか?

寺地:そうですね。最初に読んだのが何かは忘れましたが、『センセイの鞄』とか、すごく好きでした。

その4「文芸誌の存在に感動する」

―実家を出られたのはいつだったのですか。

寺地:32歳で結婚して、夫が大阪に住んでいたのでそちらに越しました。まずは、書店が歩いて行ける距離あるってすごいことやなって。今までは車で行っていましたが、大阪ではそんなに街中ではないのに、最寄り駅に書店がふたつあって、すごく感動しました。

私、小説の単行本とかの最後に「初出」って書いてあるのが長年の謎だったんですよ。「初出『群像』」とか「初出『すばる』」とか。そういう雑誌があるんだろうなとは思ったんですけれど、実物を見たことがなかったので、出版関係者みたいな一部の人が読む特殊な本やろうなとか勝手に想像していました(笑)。でも、大阪の本屋で普通に置かれていて、「ああ、『群像』ってこれか」と、興奮して手に取りました。これが『群像』、これが『すばる』、これが『新潮』、これが『文學界』って。その時の会計は1万円を超えました。

―文芸誌を手あたり次第買ったということですか。

寺地:はい。大阪に来て何を見た時より一番テンションが上がりました。こういうのが当たり前に生活に入ってくる、これが大阪か、みたいな感じで。なんのこっちゃですよね(笑)。地元の図書館にも文芸誌はあったんでしょうけれど、チェックしてなかったんでしょうね。それで、毎月小説が連載で読めるなんてすごいじゃんって嬉しくなって買うんですけれど、いろいろ買うと毎月5000円以上かかってしまって。お金が続かないので、全部買っていたのは最初の何か月かでした。それでも結構買ってましたね。単行本になるよりも早く読めるってすごいことだなと思ったし、連載でちょっとずつ読めるのも楽しかったですね。新連載が始まると「あ、これは最初から読めるんだな」とまた嬉しくて。それに、いろんな方のお話が載っていますよね。それがすごくいいと今でも思うんです。内容がまったく分からない本を1冊買うって、文庫でもそれなりに勇気を要する。でも文芸誌はちょっとお試しみたいな感じで、いろんな人の小説が読める。自分にとって、はじめてガイド的な存在が現れたんです。
だから私もたまに雑誌とかに短篇を載せてもらう時は、お試しみたいな感じで誰かが読んでくれたらいいなと思って書くんです。

―そうやって読んでいるうちに、お気に入りの現代作家さんを見つけましたか。

寺地:吉村萬壱さん。文芸誌に短篇が載っていて「あ、面白い」と思って本を買って読むようになった人として代表的ですかね。絲山秋子さんも文芸誌で知りました。吉村さんはやっぱり『ボラード病』にびっくりしました。絲山さんだと『沖で待つ』かな。『小松とうさちゃん』も可愛くて好きでした。それと、朝倉かすみさんがすごく好きなんですが、朝倉さんを読み始めたのもこの時期です。どこでどう出合ったか憶えていないんですけれど。

―朝倉さんの作品では、どれが好きですか。

寺地:全部です。読んだ本は全部。

―おお。じゃあ、朝倉さんの最新作の『平場の月』とかも読まれました?

寺地:もちろんですよ。ふふ。好きな人が死んでしまう話ですけれど、でも死んだでしょ、悲しいでしょ、感動するでしょ、みたいな感じでは全然ないじゃないですか。そこがすごく素敵でしたね。つい最近読み終えたばかりで、感動が鮮明に残っています。

ああ、井上荒野さんも好きですね。

―井上さんの作品では、どれが好きですか。

寺地:全部です(笑)。わりと最近読んで印象に残っているのは『綴られる愛人』ですね。

―ああ、歳の離れた男と女が互いに自分の素性を偽って文通をするという話ですね。

寺地:そうです。お互いちょっとずつ手紙に嘘を書くんですよね。その文通相手の若い男の人がバリバリ気持ち悪くて(笑)。便箋に血をつけて「喧嘩してきたんだよ」みたいなことを書いたりして。それで、全然感動的な結末に至らないところが、すごく好きでした。

―全体的に、じわじわくる文章をお書きになる方がお好きなのかな、と。

寺地:あ、そうですね。「お話のスケールがすごい」とかいうよりも、文章そのものがどうか、かもしれません。ものすごくストーリーが面白くても文章が苦手な人だと、その本はあまり好きにならないかもしれません。それは好みですから。だから、好きな文章の人の本だったら、なんだったら未完でも読めると思います。たぶん、文章を味わいたいんですよね。

―私、最初に寺地さんの文章を読んだ時、これは純文学系の人かなって思ったんですよね。でも、ご自身ではジャンルは意識されていませんよね?

寺地:違いがあまり分かっていないんです。私は文章を味わうのが楽しいので、たぶん純文学でもエンターテインしているんですよね。楽しんでいるんですよ。
でも、考えてみると、ミステリみたいなものが好きな人がタイトルだけで本を選んだら「なんじゃこりゃ」みたいな作品に出合うこともあるわけですよね。私が「これが楽しい」と思う本でも、読んでがっかりする人もいるんですよね、きっと。だからある程度はジャンルを分けたり意識したりする必要があるのかなとは、最近思います。たとえば小川洋子さんの『人質の朗読会』とか、タイトルだけ聞くとミステリっぽいですよね。

―外国でテロが起きて、長期間人質となっていた日本人たちが結局死んでしまい、後日彼らの音声が発見される…という、あらすじ説明でも誤解されそうですね。実際はビスケット食べたりスープ作ったりする話ですものね。個人的に傑作だと思いますけれど。

寺地:私も好きでしたが、ミステリだと思って読んだ人がいたら「え」って思うのかな、って。

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