WEB本の雑誌「作家の読書道」寺地はるなさんインタビュー

婚約を破棄されどん底にいた女性が、ひょんなことから雑貨屋で働くことになって……あたたかい再生の物語『ビオレタ』でポプラ社小説新人賞を受賞、以来、現代人の心に沁みる小説を発表し続けている寺地はるなさん。幼い頃は親に隠れて本を読んでいたのだとか。読書家だけど小説家を目指していたわけではなかった寺地さんが小説を書き始めたきっかけは?読むことによって得た違和感や感動が血肉となってきたと分かる読書道です。

取材・文/瀧井朝世 ―WEB本の雑誌「作家の読書道」2019年1月26日

寺地はるな(てらち・はるな)さんについて



1977年佐賀県生まれ。大阪府在住。2014年『ビオレタ』でポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。ほかの著作に『ミナトホテルの裏庭には』『月のぶどう』『今日のハチミツ、あしたの私』『みちづれはいても、ひとり』『架空の犬と嘘をつく猫』『大人は泣かないと思っていた』『正しい愛と理想の息子』がある。

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その1「親に隠れて本を読んでいた」

―いつも一番古い読書の記憶からおうかがいしているんです。

寺地:タイトルが覚束なかったのでいくつか持ってきたのですが(と、本を数冊取り出す)、幼稚園で毎月1冊絵本をもらっていたなかで、はっきり覚えているのがこのお話なんです。本自体は、あとから買ったものなんですけれど。

―アンデルセンの『お姫様と11人の王子』ですね。

寺地:お姫様に11人お兄さんがいて、11人とも白鳥に姿を変えられてしまうんです。夜は人間に戻れるんですけれど。トゲのあるイラクサでマントを編んで全員に着せかけてあげたら魔法が解けるけれど、編み上げるまで口をきいてはいけないって言われるんです。子どもの頃に読んで、これはすごくかわいそうだなと思って。すごくきれいなお姫様なので、森でこっそり編んでいたら狩りに来た王様だか王子様だかが彼女をお城に連れて帰ってしまうんですよ。まだ編まないといけないのに。きれいだから連れて行かれてしまうなんて、きれいなのも大変だなって。みんなお兄さんたちが魔法にかけられていると知らないから、お姫様のことを「魔女だ」みたいに言い始めて、磔にされるギリギリのところで編み上げて魔法がとけてめでたしめでたしなんですが、「えー、大変」と思って、それが強烈に印象に残っているんです。

―素敵な物語を読んだ、という記憶ではなく、なにか納得できないものがあった、という記憶だったんですね。

寺地:そうなんです。『シンデレラ』もそうですけれど、お姫様が出てくる話ってだいたい「きれいだから」っていう理由で誰かが助けにきたりするので、「きれいだというのは重要条件なんだな」と思い、子どもながらに暗い気分になっていました。きれいじゃなかったら誰も助けにきてくれないし、靴を落としても探しにも来てくれないということが、お姫様の話を読んですごく気になっていました。

私は佐賀県の出身なんですけれど、わりと人の容姿について簡単に口に出す土地柄だったんです。結構きれいな人のことでも「あの人は口が大きすぎるけん、いかん」とか平気で言われる。4歳くらいの子どもだった私でも、普通に容姿をけなされたんです。だから余計気になっていたのかもしれないですね。幼稚園の先生でも普通に「〇〇ちゃんは可愛いから」とか言っていました。

―へええ、それはきつそう…。

寺地:だから『オズの魔法使い』を読んだ時は、すごく新鮮でした。きれいだから幸せになれるということではなく、ドロシーの知恵や優しさにで話が展開していくから、すごく面白くて、すごく好きになりました。読んだのは小学校1年生くらいだったと思うんです。

何年か後にその続篇があるのを知って、どうしても読みたくて…。結局、最初の5作くらいしか読めなかったんですけれど、2巻目はドロシーが出てこなくて、3巻目の『オズのオズマ姫』でドロシーがまた帰ってくる。そこですごく格好いいなと思った場面があるんです。ラングイディア姫という、顔を30個持っていて、それを着替えるように自由にかえられる人が出てくるんです。1日中鏡張りの部屋で、「きれいやわあ、私」みたいな感じで過ごしているんですよ。その人がドロシーに「あんたの顔ちょうだい」「かわりに26番をあげるから」って言う。そこでドロシーが怒ってきっぱり言うんです。「私、お古はいただかないことにしてるんです。だから、今のでやっていきますわ」って。格好いいと思いました。その頃自分は、当たり前のようにお姉ちゃんや親戚のおさがりをもらっていた子どもだったので(笑)。
本は好きでした。ただ、うちの親って、本を読むのを嫌がったんですよ。本を読んでも嫌がるし、テレビを見ても嫌がるし、何をしても嫌がる。だから、おおっぴらに本を読めなかったんです。こそこそ読んでいました。

―ご両親は「勉強しなさい」っていいたかったのでしょうか。

寺地:小学生の頃は勉強はしてほしかったみたいですけれど、中学生くらいになって勉強しはじめたら「しなくていいよ」とか言い出して。へんな家族ですよね? どうしてだったのか、全然分からないんですよ。すみません、分からない話をしてしまって。

―いえいえ。じゃあ小説家になった時はどのような反応だったのか気になります。

寺地:それがまた怖いんですけれど、普通に喜んでいました(笑)。「あんた、本好きやったもんね」って。あんまり喜ぶから、私の記憶が間違っていたのかなと思ったくらいでした。

―へええ。ご兄弟はいらっしゃったのですか。その方たちは読書されていたのかなと思って。

寺地:兄と姉がいますが、本は読んでいませんでした。山奥に住んでいたしテレビも見せてもらえないから、図書館で借りてくる本くらいしか楽しみがないけれど、借りても親の前まではランドセルから出さないようにしていました。

―読む本は海外のお話が多かったのですか。

寺地:そうですね。もうちょっと大きくなってからだと、『ナルニア国ものがたり』とか、エンデの『はてしない物語』とかがすごく好きでした。

でも、5年生くらいではじめて、田辺聖子さんの本を読んだんです。それで内容にびっくりして。最初に読んだのが『言い寄る』だったんですよ。『言い寄る』『私的生活』『苺をつぶしながら』で三部作となっていますよね。その『言い寄る』の文庫を偶然手に入れて、読んでみたら出てくる男の人がちょっとクズみたいな感じで、それが衝撃で。これが大人の世界かと思って(笑)。

―作文や読書感想文など、文章を書くのは好きでしたか。お話を作ったりとか。

寺地:いや、好きでもなかったですけれど、書けなくて困るということもなかったように思います。空想は常にしていましたね。でも、それをわざわざ文字に残しておこうとは思わなかったですね。

―たとえば、どんな空想を?

寺地:自分じゃない誰かが生活している様子を、ずーっと考えるとか。私は今給食を食べているけれど、たとえばフランスに住んでいる私と同い年の女の子は何を食べてるんやろ、みたいなことを延々と考えていました。他に、後にお話を書くようになる要素があるとしたら、自分ではあまりたくさん本を買えないから、夏にやっている新潮文庫の100冊、みたいなものの目録というんでしょうか、あれを本屋でもらってきて、繰り返し読んでいたことですね。

―あらすじ紹介とかを繰り返し?

寺地:はい。それで「こういうお話かな」と想像していました。だから、自分ではすっかり読んだ気になっているけれど、その頃に想像しただけの本とかあると思います(笑)。映画なんかも、チラシを見てすごく想像する癖がありました。今はしないですけれど(笑)。想像の中ではなんでも起こるから、実際の映画を観て「あれ?」っていうこともありました。

―漫画も家では禁止だったのですか。

寺地:はい。でも友達の家で読めました。5年生の時に、同じクラスの男の子の家に遊びに行ったら「りぼん」がずらーっと並んでいたんです。そもそも漫画を見たことがなかったから「なんだこの素敵な本は」と思って。可愛い女の子の絵がいっぱい載っていて、レターセットとか、すごく素敵な付録がついていて。こんないいものがあるんやと思ったんですけれど、そのなかで一番好きだったのが岡田あーみんのギャグ漫画でした。

―『お父さんは心配症』とか?

寺地:そうそうそう、『お父さんは心配症』です! そこではじめてギャグ漫画を一気に摂取して。「りぼん」はどうしても欲しかったので、月に500円くらいのお小遣いのなかから買っていました。でもそれはさすがに分厚いので隠せず、親にばれましたね。まあ、ばれても馬鹿にされるだけなので、別にいいんですけれど。

―でも、親に馬鹿にされるって、心が折れますよね。

寺地:そうですよね。親って絶対的な存在だったので、そういう人に馬鹿にされるというのは悲しいことですよね。

その2「古典名作を読みはじめる」

―中学生時代はいかがでしたか。

寺地:中学校の時は……ぼーっとしていましたね。あ、その頃、リヴァー・フェニックスがすごく好きだったんですよ。でも映画も自由に観られないから、映画のチラシを集めたりしていて。『スタンド・バイ・ミー』のスティーヴン・キングの原作の新潮文庫を買うと、カバーの見返しのところに映画の写真が載っていたんですよ。だから読んで、写真を見て、読んで、写真を見て、という(笑)。原作は映画とはだいぶ違うけれどそれも面白かったので、そこからホラー小説を読むようになった時期がありました。キングだと『ミザリー』とか。

―テレビも見られなかった人がなぜリヴァー・フェニックスを知ることができたのでしょう。

寺地:いとこの家に泊まりに行ったら「映画でも観ようか」といって普通にレンタルビデオを借りているので「ああ、なんて素敵な家族なんだ」と思って、その時に「旅立ちの時」と「スタンド・バイ・ミー」を観たのかな。

―その頃はまだリヴァー・フェニックスって生きてました? 若くして亡くなったんですよね。

寺地:(亡くなったのが)高校2年生の時だったんです。名前を口にするのも辛すぎて、つい最近までファンだったことも言えなくて。最後に出演した「ダーク・ブラッド」もまだ観ていないです。観たらなんか、本当に終わってしまいそうで。あれから20年以上経って、この間「別冊文藝春秋」のコラムのお話をいただいた時にはじめてリヴァー・フェニックスについて書いて、ようやく普通に「ファンやったんです」と言えるようになりました。

―そんな若い頃に好きな人に死なれるのは辛いですよね…。と、すみません、脱線させてしまい。中学生の時に話を戻しますと。

寺地:中学2年生の時に、あまりにも成績が悪すぎて、塾に入ろうとしたら入れなかったんです。「ちょっと手に負えません」みたいにいわれて。それで、公文式の教室に行くことになったんですけれど、そこの教材に森鴎外の『高瀬舟』が出てきたんです。抜粋されていた部分がすごく面白くて。でも、『高瀬舟』って短いじゃないですか。

―数分で読み終えられるくらいの長さですよね。

寺地:問題で出されたのもあの短い小説の、かなり後半部分だったんですけれど、問題文を読んだ時はそれが長篇の一部だと思ったので、「続きが気になる」と思って図書室で借りて読んで、あの短さに驚きました。「あ、問題に出た部分はもう終わりのところやったんや、ええー」って。でも、古典的名作といわれるものって難しいと思っていたけれどすごく面白いんだと気づいて、「じゃあ、有名なやつを読もう」となりました。でも、まわりに本を読む人がいないから、どれが面白いかも聞けないし作家の名前も分からない。それで国語の便覧に載っている人を中心に読んでいくことにしたんです。谷崎潤一郎とか、太宰治とか…川端康成は『伊豆の踊子』がなんとなく嫌だなと思って。出てくる学生さんが偉そうだな、って。当時としてはそれが普通の感覚やったんですかね。あとはあれです、『蒲団』。

―ああ、田山花袋の『蒲団』はね(笑)。

寺地:そうそう、大人になった今なら「まあ人間だもんね」って思うんですけれど、中学生で読んだ時は「嫌だ、気持ち悪い」って思っちゃったんですよね。作家の先生が、奥さんもいるのに若い女性の弟子のことを好きになって、その子が使っていた布団に顔をうずめて泣くなんて気持ち悪い、って。今なら、人にはそういう情けないところもあるよねって思うんですけれど(笑)。

―逆に、いいなと思った作品はありましたか。

寺地:谷崎潤一郎の「刺青」の出だしがすごく格好いいなと思って。「其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった」という文章ですね。「愚」って馬鹿にする言葉なのにそれを「貴い徳」というところが衝撃的でした。

太宰治も、最初に犬を捨てる話を読んだんです。「畜犬談」ですね。きったない犬を飼っていて、みんなに笑われるだろうから捨てようとしたけれど捨てられなくて付いてきちゃって、家に帰って奥さんに、捨てれんかったわと言ったら「ああ」という反応だったというような話ですけれど。ああ、太宰って面白い人なんだなと思って読んでいました。太宰の短篇は面白いですね。

夏目漱石は『こころ』が一番好きかな。中学生の時は、わりと難しい言葉が多いなという印象でした。志賀直哉は『小僧の神様』とかは読んだけれど『暗夜行路』は読んでいません。島崎藤村は読んでいないかもしれません。目録を読んで読んだ気になっているだけかもしれません(笑)。

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