新刊『たてがみを捨てたライオンたち』が話題!『野ブタ。をプロデュース』で鮮烈なデビューを飾った白岩玄さん「作家の読書道」インタビュー

『野ブタ。をプロデュース』で鮮烈なデビューを飾り、その後着実に歩みを続け、最近では男性側の生きづらさとその本音を書いた『たてがみを捨てたライオンたち』が話題に。そんな白岩さん、実は少年時代はほとんど小説を読まず、作家になることは考えていなかったとか。そんな彼の心を動かした小説、そして作家になったきっかけとは?

取材・文/瀧井朝世 ―WEB本の雑誌「作家の読書道」2018年11月24日

白岩玄(しらいわ・げん)さんについて

1983年、京都府京都市生まれ。2004年「野ブタ。をプロデュース」で第41回文藝賞を受賞しデビュー。同作は第132回芥川賞候補作となり、テレビドラマ化される。他の著書に『空に唄う』『愛について』『R30の欲望スイッチ―欲しがらない若者の、本当の欲望』『未婚30』、『ヒーロー!』『たてがみを捨てたライオンたち』など。

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その1「読むことより書くことに興味」

―今回は「作家の読書道」、記念すべき第200回目です。

白岩:記念すべき200回目に申し訳ないのですが、実は、僕はそんなに本を読んでこなかったんです。隠さずに言うと、作家になるまでほぼ小説を読んでこなかったんですよね。小さい頃も、母親が図書館とかで紙芝居を借りてきて読むというのを延々やっていたらしいんですけれど、僕はまったく憶えていないんですよ。かなりの数を繰り返し読んだ、と言われているんですけれど。

―ふふ。そういう方がどうして小説家になったのか興味が湧きます。では小学校に入ってからも、本を読んだ記憶はあまりないのですか?

白岩:特に本に触れたという記憶はなくて。でも一時期、アガサ・クリスティーの小説にちょっとハマって、夏休みの間に読んだ記憶があります。でもまわりに「本を読め」という大人もいなかったし、家の中に本がポンと置いてある状況もなかったし、本好きの友達もいなかったんですよね。だから別に避けていたという訳ではなくて、ごく自然に生きていく中で本当に、触れる機会がなかったんです。

―どういう子ども時代でした? 何をして遊んだのか、とか。

白岩:普通に外で遊んだりとか、家で友達同士でゲームをしたり。ゲーム世代なんです。それこそ小学校1年生の時にスーパーファミコンが出たので。まわりはゲームをしているか、スポーツをしているかという感じでした。
そういう子ども時代を過ごして、小説に触れないまま、書くことに興味を持ったんですよ。それが中学2年生の時だったと思うんですけれど、ギャグ漫画の『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!! マサルさん』というのがあって。「ジャンプ」に載っていてすごく人気で、その影響でちょっと面白い文章を書いて笑わせるというのが友達の間で流行って。それをやり始めて、周りから面白いと言われる回数が多かったので、どうやらみんなの中で自分が一番それが得意なんだという、ちょっと調子に乗ったところがありました。

―面白い文章というのは。

白岩:漫画のネタを別の形に作り替えるというか。文章といってもそんなに長いものではなくて、ちょろっとしたものを書いて、イラストもつけて、友人に回して笑わせるというものです。その延長線上で、たとえば学級日誌だったり、文集とかを書く時にウケを狙いに行くようになったので、中学2年で文体がガラッと変わりました。
中学3年生の時に親友だなと思う奴ができて、そいつがたまたまピアノやギターをやっていて、「詩を書かないか」と言われたんです。「書くの好きだしやるやる」と言って、そこでまた書いたりして。その時に友達が「お前、才能があるな」と言ってくれて、ますます調子に乗って(笑)。書くことにどんどんのめり込んでいって、たぶん高校2年生の時には、地元の京都で面白い文章を書かせたら3位に入るなと自分で思っていました(笑)。

―でも1位でなくて3位というのが、謙虚ともいえる。

白岩:まあ、3本の指には入るだろうという、根拠のない自信を持っていたんです。でもちょうどその時に、僕と同学年の綿矢りささんが、17歳で文藝賞を獲ってデビューするんですよ。『インストール』で。綿矢さんも京都出身なので周囲でも話題になって、それで僕も読んだんです。

僕は自分のことを面白い文章を書く人だと思っていたので、彼女の作品も小説というよりは文章として読んで「ああ、同世代にもうまい文章を書く人がいるんだ」という理解を得ました。ただ、「俺とはジャンルが違うから」と思うことでそこまで嫉妬することもなく(笑)、そこでも小説と正面からは出会わなかったんですよね。

―高校時代、何か文化的な趣味とか活動は?

白岩:映画かな。高校の時、本を読まない分、映画は結構観ていたんですよ。1週間に4本くらい。特に何かが自分の中に残っているということはなくて、「俺、映画いっぱい観てるぜ」って、かぶれていたんだと思います(笑)。

その2「イギリスで小説と広告に目覚める」

―卒業後はどうされましたか。

白岩:高校を卒業してすぐイギリスに留学しました。うちは父も母も姉2人も、みんな留学しているんですよ。なにせ父と母はアメリカで出会っているくらいなので。だから大学に行くという選択肢が家庭内であまりなくて、どちらかというとみんな留学の話のほうをよくしていたから、自然とそういうものなのかなというのが自分の中でありました。
それに、大学受験したくなかったんです(笑)。勉強がそんなにできなかったというのもあるし、高校生活が実質2年しかないというのが嫌だったんですよ。3年間あるけれど、最後の1年は夏くらいからみんな受験勉強を始めるじゃないですか。そうすると受験のための1年になってしまう。高校生活は3年間じゃないかという気持ちがあったから、意地でも受験勉強はしないというのを決めていました。みんなが「お前、大丈夫なん?」とか言うなかで、「いや、俺は絶対そんなんせんから」って意地を張って留学したというのもあります。まぁ、今思えば、逃げたようなものなんですけど。

―向こうでは英語の勉強をして、小説を読むこともなく?

白岩:いえ、向こうで江國香織さんと辻仁成さんの『冷静と情熱のあいだ』の、辻さんのほうを読んで、そこではじめて「小説って面白いんだ」というのを知ったんです。

きっかけは、友達が貸してくれたから。僕はそれまで小説を読んでこなかったから、その時も「いや、いいよ。どうせ読まないから」って断ったんです。でもイギリスにいると当然、生活が全部英語なので、日本語に飢えていたんです。で、とりあえず読んでみようかと思って読みだしたら、思いのほか面白くて。「思いのほか」って失礼ですけれど(笑)。「あ、小説ってこういうものなんだ」とはじめて知って、それで結構ショックというか、「ああ、すごいな」と思って。
その時期も相変わらず文章を書くことは続けていたんです。語学学校が休みの間は近場のアイルランドやフィンランドやポルトガルに行ったりして、あちこち見たものを旅行記にして実家に送っていたんです。日本語が書きたかったし、文章を書くことが得意だと思い込んでいるから、自己満足で実家に送っていたんですけれど、家族も優しいから「どんどん次送ってこい」と言ってくれるので。それと小説を読んだ時期が重なって、「じゃあ、この旅行記を小説の形を使って書いてみよう」と思い、辻仁成さんの文体をパクッて(笑)、縦書きの小説の形で書いて、紙を切って文庫の大きさの本を作って、それを家族に送ったりしていました。

―帰国されてからは。

白岩:広告の専門学校に行きました。イギリスに留学した時に向こうのテレビCMを見て、その面白さに衝撃を受けたんです。カンヌのCMなどをばんばん獲るようなクリエイターが海外にはいる。ものを作る土壌が日本と全然違っているんですよね。それで「こんなに面白い世界があるんだ」と広告に興味を持って、日本の広告も見るようになりました。だから「何かを伝える」という媒体として、広告はすごく影響を受けていると思います。僕、一時期、作家さんの名前よりもCMクリエイターの名前のほうが知っていたくらいでしたから。

―参考までに、クリエイターではどなたが好きでしたか。

白岩:そんな話したら長くなりますよ(笑)。そうだなあ、佐々木宏さんという、リオデジャネイロのオリンピックの閉会式のクリエイティブスーパーバイザーをやられた方。手がけたCMとか見たら「ああ、知ってる」というものばかりだと思いますよ。抜群にエネルギーがあって、人を「面白い」と思わせる、興味を引かせる力が恐ろしく強い。それと、大貫卓也さんという、としまえんの「プール冷えてます」の広告とか、資生堂の「TSUBAKI」のボトルを含めたデザインを作られた方。その2人が好きですね。
当時、第一線で活躍されていた人たちの影響はかなりあると思います。自分が一番、ある種多感だった時期に本当に好きだった人たちなんで。ずーっと広告のことを考えて、ずーっと広告のことを喋っていた学生時代でしたし。すでに小説でデビューしていたんですけれど、広告のことを考えている時間のほうが長かった。

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