新刊『たてがみを捨てたライオンたち』が話題!『野ブタ。をプロデュース』で鮮烈なデビューを飾った白岩玄さん「作家の読書道」インタビュー

その5「死と死者の描かれ方の好み」

―死を書いているものでも、合うものと合わないものがあるわけですね。

白岩:死を書いているものでもいろいろあって、死者がまるで生者の世界に寄り添っているかのように書いている作品もあれば、死を都合のいいように書いているものもある。でも自分が考える死というのは、もっと突き放されるというか、こちらの呼びかけに対して、向こうが応えないものなんですよ。そういうような死のとらえ方をしている文章だったり表現だったりに惹かれるんです。
だから、全部、そこに集約されるのかなとも思うんですよね。父親の死の受け入れ方だったり、あるいはそれに対する付き合い方だったりというのを、いまだに模索しているんじゃないかということに、最近ようやく気がついて。
なので、好きになるものの傾向も、どうやらそこにあるようです。ちょっと古い作品ですけど、「ハリーの災難」という映画があって。

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―ヒッチコックですね。

白岩:そうです。あの映画はハリーという男が殺されて、死体を村の人が埋めるんですけれど、いろんな騒動があって、何度も掘り起こされてはまた死体を隠すために埋められる。喜劇っぽくなっているんですけれど、僕はあれがすごく好きで。死っていうものが生きている人間をずっと居心地悪くさせる、人はそれを気にせざるをえないということがものすごく面白く描かれている。

―どの作品で描かれる「死」が自分に合ってどの作品のが合わないのかは、実際に読んだり見たりしないとなかなか分からないですよね。

白岩:そうですね。ただ、ひとつ傾向としてあるのは、死というものを考えている人は、現在だけで生きていないというか、どこかで視点が過去にあると思うんですね。だから、「私は過去なんて忘れて今を生きるわ」という空気を強く感じる表現物は、見続けているとしんどくなってくるんです。無理に忘れようとしなくてもいいじゃないか、もっとそこに縛られて、くよくよしたり、いじいじしているオブライエンを見習ってくれよと思ってしまう(笑)。

―たとえば、いとうせいこうさんの『想像ラジオ』なんかは、どんなふうに読まれたのでしょうか。

白岩:僕、あれすごく好きでした。好きな理由はふたつあって。ひとつは死者っていうものに対する敬意が感じられるところ、もうひとつは、死者と生者は繋げられないものだって分かってる人が、それでも繋げたいって気落ちを持って書いたものだという印象を受けるところ。ある種、死者の言葉を語るわけですけれど、それって本当はとても難しくて、物語の中でやるとものすごく都合よく使えたりもする。どこまでやって良くて、どこまでやったら行きすぎなのかを、僕はいつも注意して見てしまうんですけれど、あの作品は、繋げたい人たちと、死者に対して黙って敬意を払って静かにしてよう、死者のことをへんに語るのはやめようっていう、そういうバランスをちゃんと保っていて。もう、僕が言うのはすごくおこがましいんですけれど、すごく嫉妬しました。こんな作品書けるんだって。キャリアも全然違うんですけれど、「うわ、これ自分が書きたかった」って思ったんですよね。今、よく『想像ラジオ』が出てきましたね。

―いや、白岩さんの話を聞いているうちにあの本が浮かびました。

白岩:僕の場合、死者について「黙っていればいい」っていう考え方ではなくて、「繋げたい」っていう気持ちを感じるかどうかも大事なんです。『野ブタ。をプロデュース』も自分なりに分析すると、応えないもの、それは世間や社会だったりするんですけれど、その応えないものに対してメッセージを投げかけて、どれだけ反応が返ってくるか確かめる話だったと思うし。

―自分の興味がはっきりしたからこそ、白岩さんの第2作の『空に唄う』は、新米のお坊さんの前に女子大生の幽霊が現れる、という話になったわけですか。

白岩:当時はそこまで分かっていなかったですけど、興味の方向としてはそうだと思います。2作目は、自分の総力戦というか、小説を書く力の無い人間が「小説というものを書きなさい」と言われて書いたものだと僕は思っているんですけれど、全然力の無いなかで、とにかくこのテーマで書いてみたいと思っていました。とにかく死というものに触れたい、書きたいという気持ちがあった。そういう意味では2作目は僕にとっては大きいんですよ。

―それで、書けない時期を抜け出せたわけですか。

白岩:いえ、僕は作品数が多い作家ではないので、その都度その都度行き詰まっていたと思います。要は、本当に小説に興味があるのかどうか、自分でもいまだに分かっていないんだと思うんですけれど。ただやっぱり、何かを感じて外に出したいと思っているのは事実なので、それが文章っていう表現方法で、今、小説を書かせてもらえる場所があるっていうのが大きくて。
小説というのは、ある程度自分の好きなようにカスタマイズできる媒体でもあると思うんです。表現方法が幅広いので、自分が思う方法で書いて、小説というテイで売っていいのかなという気もしているし。なので、書くことについては、毎回新しいものを書くたびに壁にぶつかってはいますね。
あと、すごく肩身が狭くて、「自分がここにいていいのかな」という感覚があるんですよ。まわりは小さい頃から本を読んできて、作家になりたくてなったという方が多いですし、そこに自分は全然入れないなという劣等感もあるし。ただ、まあ、それを感じたところでどうにもならないので、自分は自分のやりたいようにやるしかないんだって思っています。

その6「最近の読書と新作」

―新作の『たてがみを捨てたライオンたち』もそうですけれど、小説という媒体だからこそ、立場が違う人間の感情や本音がすうっと分かりやすく、頭に入ってくるところはありますよ。

白岩:そうだといいんですけれど。やり続けていく中で、自分の気持ちが少しずつ小説の方に向いていっている部分もあるでしょうし、他の人の作品を読むなかで、小説って面白いなと思う部分も増えましたから、それが自然と作品に反映されていくだろうし。なので、もうちょっと小説と、和解というか、仲良くなれたらいいなっていう。いつかもっと自由に使いこなせるようになったらいいなと思うんですけれど。

―その『たてがみを捨てたライオンたち』は「男らしさ」の呪縛を描いた一作ですが、そういえば前に田中俊之さんの『男がつらいよ』という男性学の本を読んだと言ってましたね。そうした教養本も結構読みますか。

白岩:読みますね。社会学であれば、男性学の他にも、ウーマンリブやフェミニズムの本なんかも読みましたけど、それはどちらかと言うと伝え方の勉強の意味合いが強いですね。ジェンダーの問題って、すごくデリケートなところもあるので、どういう言い方をしたときに、どんな響き方をするかを調べておいた方がいいかなと思って。
たとえば、「こんなおじさんはクソだ」みたいな書き方って割とよく見るんですけど、誰かを否定することによって、文章そのものが攻撃的な色を帯びることってあるじゃないですか。だからそういう気づかせ方や、批判の仕方もあるなと思う一方で、自分はもう少し違うやり方をしたいなと思ったり。その辺りは今回の小説を書く際に参考にしましたね。誰かを責めるのはみんながやっているから、自分は違うやり方でやろうって。

―ああ、自分の関心のあることを小説にするために、そうした本を読んで書き方をチェックした、という感じなんですね。

白岩:そうです。やっぱり僕は自分に興味があるんでしょうね。自分の中の問題が明確にあって、それに必要なものをどこかから引っ張ってくるという感じなので。本だけじゃなくて、映画でも漫画でも雑誌でもいいんですけれど、知りたいことを調べて摂取しているので。

―今、読む本はどんなふうに選んでいますか。

白岩:もっとがっつり死にかんするもの、たとえば世界中の埋葬法とか知りたいなと思って、そういった内容の本を探して読んだりしています。それと、僕、ライターの武田砂鉄さんとは古い友人なんですよ。僕が河出書房新社からデビューすることになったよって友達に話したら「え、俺の友達、今度河出に就職するぜ」ってなって、「じゃあ、今度会おうよ」って。だからデビューする前からの知りあいなんです。知らぬうちに会社を辞め、書き手に転身してましたね。それで武田君の『紋切型社会』や『芸能人寛容論』とか『日本の気配』とか読んで、「ああ、こういうの書くんだ。面白えなあ」と思ったり。

あと、はじめて見たものが親と思う、じゃないですけれど、綿矢りささんと金原ひとみさんの本はなんだかんだ意識していますね、どこかで。おふたりとも書かれるものが面白いですし。金原さんの『持たざる者』とかすごいなあと思ったし。ずっとどこかに絶対に超えられない人たちとして僕の中にあるんだろうなって思いますね。
……大丈夫ですか? こんなので読書道の話になっているか不安なんですけれども。

―なってますよ! 読む量が多ければいいって話ではないですし、同じものを30回も40回も読むなんてすごく豊かで羨ましいです。オブライエンや村上さんの初期の作品などのほかに、繰り返し読む本はありますか。

白岩:漱石も『それから』と『夢十夜』のふたつはすごく読んだかな。特に『夢十夜』は描写が抜群に美しいので。僕、伝統工芸が好きなんですよ。母親がそういう関係の事務の仕事をしていたんですけど、その影響で昔の伝統工芸の作品を観る機会が多かったんです。陶芸とか染色の大家の作品から感じる、時間が経ってもずっと輝き続けている不変性に近いものを漱石の作品にも感じます。だからずっと眺めていられるんです。小説を途中から読むというのも、壺とか着物とかを眺めるのと同じ感覚かもしれません。この柄をずーっと眺めていられる、とか。

『それから』で、三千代が代助の家に来て、雨が降ってきてそれを眺めて、雨戸を閉めて…という場面の描写とか、すごく好きで。そういう部分部分はあるんですけれど、全体でどんな話ですかって聞かれたら、「うーん」ってなる。オブライエンもそうですね。部分部分で憶えているので、「どんなあらすじか」と訊かれても説明できないと思います。

―今「眺める」という言葉が腑に落ちました。ただ、ご自身が小説を書く時は起承転結などプロットは考えないのですか。

白岩:考えますけど、仕方なく、です。自分が書くとなるとやっぱりちょっと違っていて、全体を考えないと書けなかったりもしますから。部分部分を考えてそれを組み合わせていく書き方ではなく、ある程度流れを考えて書いていますね。
僕のなかで、書くというのはまとまった何かをぶつけたり投げたりするイメージで、読むというのは世の中にある部分的なものを、自分の必要なところだけ摂取するって感じなのかな。伝えるという時に部分だけ伝えても意味ないじゃないですか。だいたい、何かを伝える時、言葉を1から10まで尽くしても伝わらないことだってあるから、やはりまずは全体像を考えないと。

―さて、さきほども話に出た新作『たてがみを捨てたライオンたち』ですが、仕事で評価されず妻から「専業主夫になれば」と提案された夫や、地位やお金は得たけれど孤独を抱えるバツイチの広告マン、モテないことに劣等感があり過去の一度だけあった恋愛の傷を引きずる公務員など、「男らしさ」にとらわれて行き詰っている現代の男性たちが登場します。また新たなテーマを提示してくださった印象ですが。

白岩:僕自身が30代になって書けた本ですね。振り返ると20代の頃って、僕もたとえば恋愛関係の中で、相手の女性よりも立場が上でいたいと思っていたりしたんです。それはずっと「男らしさ」の問題に縛られていたんだと気づいて。主人公3人にはそれぞれ、過去の自分が投影されています。

―男性の本音を主張して押し付けるわけではなく、女性側の気持ちも思いやる展開になっているところがいいですね。終盤の夫婦の会話とか、すごくいいなと思いますし。

白岩:僕も頭では分かっていたつもりでしたが、こうして小説に書くことで、思考がより肉体化したところがあります。それまでは、自分が男性的な生き方を貫くことが、下手をすると妻の時間を奪ったり、彼女の人生を軽く見ることになるとはあまり実感していませんでした。男性たちの辛さだけでなく、彼らが女性に何を押し付けているかを考えて書いているうちに、3人とも女性と向き合っていく話になりましたね。

――それぞれの家族との関係も描かれること、自分の中に育まれる価値観って、教師としても反面教師としても親の影響って強いなと思いました。そうした世代間の価値観の違いや、これからの男女の在り方を考えさせてくれる新しい小説だなと思っていて。

白岩:「男らしさ」「女らしさ」を互いに強いるのでなく、「らしさ」を抜いたところでお互いに納得のいく生き方を探せたらいいんじゃないかと思います。でも家族や夫婦の間で納得しても、一歩外にでればまだ“らしさ”を押し付けてくる社会がある。もっと世の中で広く議論して、自由に生き方が選べる段階まで持っていきたいなと思っています。

<了>


この記事のライター

瀧井朝世瀧井朝世

1970年生まれ。WEB本の雑誌「作家の読書道」、『波』『きらら』『週刊新潮』『anan』『CREA』『SPRiNG』『小説宝石』『ミステリーズ!』『読楽』『小説現代』『小説幻冬』などで作家インタビュー、書評、対談企画などを担当。2009年~2013年にTBS系「王様のブランチ」ブックコーナーに出演。現在は同コーナーのブレーンを務める。ラカグ「新潮読書クラブ」司会、BUKATSUDO「贅沢な読書会」モデレーター。著書に『偏愛読書トライアングル』(新潮社)。

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