新刊『たてがみを捨てたライオンたち』が話題!『野ブタ。をプロデュース』で鮮烈なデビューを飾った白岩玄さん「作家の読書道」インタビュー

その3「あの人の受賞を知って執筆開始」

―では、小説を書き始めたきっかけは何だったのでしょう。

白岩:日本に帰ってきて「どうしようかなあ」と自分でも焦りを感じている時期に、綿矢りささんが19歳で、金原ひとみさんが20歳で芥川賞を受賞したんです。高校時代にも1回読んだことがある人が、ああいうところですごく注目されているのをニュースで見た時には衝撃を受けました。たぶん嫉妬もあったんですけど、「こんな生き方もあるんだ」と教えてもらったようなところもあって。その時の僕の中でのとらえ方は「文章を書いて社会の中で評価されている人たちがいる」というもので、「ああ、じゃあ小説を自分もやってみよう」と、そこではじめて思いました。なにせ「京都で3位」ですから「自分もいけるんじゃないか」っていう(笑)。それは小説の世界とか、本の世界をまったく知らないから持てた自信ではあるんですけれど。翌日から小説を書きだしました。1回旅行記で小説っぽいことを書いているから、要はあれを物語にすればいいんだろってくらいの感じでした。
それで、芥川賞の発表が1月だったんですよね。文藝賞の締切が3月末だったんですけれど、その文藝賞も「綿矢さんが『インストール』でデビューした賞」ってことしか知らなくて、そこに応募したら、拾ってもらえたんです。

―生まれてはじめて、しかも2か月ほどで書いた小説が文藝賞受賞のデビュー作『野ブタ。をプロデュース』だったというわけですか。あんな面白いものをいきなり書けたっていうのが本当にびっくりです。

白岩:当時も出版社の人に「天才ですね」って笑われました。「頭おかしい」とも言われて(笑)、そこの部分は、本当にそうだなって。
なんでしょうね、暇だったんで、時間が山のようにあったんです。だから毎日、コツコツとパソコンに向かって書いたんです。何か作っているのが楽しかったんでしょうね。無心で書いていたし、はじめてのことに挑戦する人が出す独特の粗っぽさとかも、エネルギーとしてうまく出てくれて、すべてがうまくはまって受賞できたんだと思います。だから、僕は小説がどうとかではなく、文章を書くのが好きっていうのだけで作家になったんです。僕、よく言うんですけれど、デビューするまで村上春樹さんを知らなかったですし。

―どうしたらこの世の中で村上春樹の名前を耳に入れずに生きてこられたのか、そっちのほうが不思議です。

白岩:だって、映画監督の名前を知らない人だっているじゃないですか。きっと今、是枝裕和監督の名前を知らない人だっているでしょう。そういう人と同じ感覚だと思います。本当に本を好きな人たちにしてみたら信じられないかもしれないけれど、一般の人ってそういう感覚だと思うんです。
小説を書いて応募して、専門学校にいる間に「受賞しました」という連絡をもらって、編集者に「2作目はもう書いてますね」と言われて、「えっ、2作目とかあるんだ、やばい」って焦りました。「もちろん書いてます」と言いましたけれど(笑)。それくらい、僕は広告業界に進む気満々だったんです。でも『野ブタ。をプロデュース』があんまりにも世の中で受け入れられて、広告に似た届き方を実感しちゃったんでしょうね。「ああ、こっちの世界もいいな」って、欲に負けたというのが正直なところです。

―そこから小説2作目を出すまでにちょっと間があいてますよね。

白岩:『野ブタ。をプロデュース』を出した後の22歳とか23歳の頃、2作目が全然書けなかったんです。それは挫折でした。このままでは駄目だ、さすがに小説を読まないと、と思ったし、編集者にも「読んだほうがいいよ」と言われて、はじめてそこで本を買って読みだしたんです。
その時に同じ文藝賞出身の羽田圭介君の『黒冷水』だったりとか、中村航さんの『リレキショ』だったりとかを実際に読んで、「ああ、小説ってこんななんだ」って。実は失礼な話ですけれど、選考委員の角田光代さんや高橋源一郎さんの本も、デビューした後で読んだんです。

―文藝賞周辺以外では、どういう本を選んだのですか。

白岩:名前を聞いたことのある人の本を手あたり次第買いました。業界に2、3年いるうちにお名前が耳に入ってきた方、いわゆる有名な方たちです。山田詠美さんとか、村上春樹さんとか。中でも、山田さんの『風葬の教室』や『ぼくは勉強ができない』は衝撃でしたね。『野ブタ』と同じ学校を舞台にしたもので、こんなにも面白いものを書く人がいたんだ、という感じでした。自分が書いた学生とは違う種類の姿を書かれていますし、スマートさや奥行きが全然違う。理性だけで書いているわけでもないし、倫理観だけ押し付けているわけでもないしっていう絶妙なバランスがある。人物造形も絶対に自分には書けないような人物を書かれているし。あとすごく好きなのは、詠美さんの本って登場人物に対する眼差しにすごく愛があって、誰一人として「私は嫌いな人を書かないよ」っていう印象を感じるんです。嫌な奴もいるけれど、「私はこの人のことを見捨てないよ」っていうのがあって、使い捨てで書いているわけでないというか。そういうのを文章から感じるので、そこがいいなと思います。

春樹さんはそれこそ初期の『羊をめぐる冒険』とか『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』とかを繰り返し読んでいました。何が好きかを聞かれるとうまく答えられないんですけれど、たぶん、喪失とか過去の傷とかについて書かれているものが多いので、その辺りが好きだったという気がしています。
そこではじめて「小説」というものの奥深さというか広さを実感して「こんなすごい人たちがめちゃめちゃいるやん」と驚いたわけです(笑)。「えっ、こんなのあるの」っていう作品が山ほど出てきて。いろいろ読んだなかで、特に「好きだな」って思ったのが、山田さんと村上さんでした。

―ところで、好きな本は繰り返し読むタイプですか。

白岩:無茶苦茶読みます。好きな本を繰り返しで読んで、新しい本にはなかなか手を出せないことも多いです。新しい本を手に取っても、「これを読み続けている時間がしんどい」と思うと止めてしまったりしますね。好きな本はそれこそ、30回、40回読みます。だから本当にボロボロになりますね。

その4「小説の読み方、一番好きな作家」

―好きな作品を繰り返し読むとなると、他の作家はあまり読まなかったのでしょうか。

白岩:芥川賞の候補になった時に選考委員の河野多惠子さんが『野ブタ。をプロデュース』を褒めてくださったので、どんな方だろうと思って読んだら、とっても素敵な作品を書かれる方で。『骨の肉』とか『秘事』とか。あとは吉田修一さんですね。『パレード』とか『パーク・ライフ』あたり。そうしたものを好んで読んでいた時期が2、3年ありました。

―やはり現代作家の作品が多かったんですね。

白岩:いや、一応その頃に夏目漱石とか、明治の文学者の本も読みました。文学全集がたまたま家にあったので、それを引っ張り出して。志賀直哉とかも、学校の授業ではちゃんと読んでなかったなと思って読んだら、やっぱり面白かったですね。当たり前なんですけれど。
夏目漱石は文章が難しくてもつかみやすいというか、分からないところがあっても読めてしまったりする不思議なところがある。たぶん、物語的には『それから』なんてメロドラマですけれど、ちょっとドラマ仕立てのストーリーが追えるから読みやすいのかなと思います。小難しい話ではないし。

それと、小説ではないんですけれど、その頃に宗教系の本や文化人類学の本もハマって読みました。中沢新一さんとか。特に宗教の本は面白かったですね。キリスト教や仏教、ユダヤ教の本とかもその時期に読みました。
あとは誰だろう。橋本治さんも好きでした。「広告批評」という雑誌で連載していたコラムをまとめた本とかも出されていて。あの方はすごく幅広い仕事をされていますけれど、文章が平易で読みやすい。とにかく僕は読書筋がないので、自分の読書筋でもかなう本をとりあえず読んでいました。

―読書記録などをつけるとか、読む時に付箋を貼ったり線を引くといった、読書のスタイルみたいなものはありますか。

白岩:記録はつけていないし付箋も貼らないけれど、僕、小説を頭から読まないんですよ。

―え、初読の時も?

白岩:はい。もちろん仕事で読む時は最初から読みますよ。でも、プライベートで読む時はあんまり…。真ん中くらいから読むこともあります。っていうのは、映画と違って本ってそれができるじゃないですか。小説だと、あんまりストーリーとかも興味なくて、そこに書いてあるものが知りたいだけなので、バラバラに読んで最後に繋ぎ合わせたりします。適当に開いたところから読み始めて、ちょっと面白いなと思ったらその前後を読んだり。そこにある文章を楽しむんです。

―ええ、だって「ここに出てきたこの登場人物は誰だろう」とか思ったりしませんか。

白岩:それが思わないんですよ(笑)。誰でもいいやって感じなんですね。そこに書かれていることが別に把握できなくても読めちゃうというか。よくドラマとかを途中から見たりすると「筋が分からないから巻き戻したい」とか聞くじゃないですか。僕は全然思わないんです。途中から流れたらそのまま見ちゃうし、分からない時は分からないままでいいやって思うタイプなので。だから、本は結構、真ん中から読んじゃうんです。

―じゃあ、ミステリとか謎解き系はあまり読めませんね。

白岩:子どもの頃にアガサ・クリスティーは読みましたけれど、たしかに今は手を出さないですね。読むのは純文系が多いかもしれませんが、どのジャンルを読もうというのは特に決まっているわけではないんです。もともとジャンルを意識していなかったし、ミステリでも面白ければ普通に読みますし。

―ストーリーではなく文章を楽しむ…。広告が好きだというだけに、キャッチコピーとか、そういう表現の仕方に興味があったかと。

白岩:そうですね、もともと広告のコピーが好きでそっちの方面に行きたいなと思っていたので、その感覚が大きいかもしれないですね。人の心に届く文章であれば何でもいいというか。小説の形をしていなくても別に気にならないので、だから部分だけで読めてしまうんだと思います。

―さて、第2作がなかなか書けない時期が続き、その後どんな変化を迎えたのでしょうか。

白岩:一番好きな作家に出会えたのが大きかったです。ティム・オブライエンという、アメリカの作家さんなんですけれど。他にも好きな作家はいますが、ティム・オブライエンは「好き」の度合いがちょっと違うくらい好きだなという感覚があります。
初めて読んだのは25歳くらいの時だったんですよ。それこそ挫折していろいろ読んでいくなかで、オブライエンの本を村上春樹さんが訳されていたので一緒に買って、その時はちょっと読んで「分かんねえな」と思って、そのまま置いてあったんですね。それを28か29歳の時に「こんな本があったな」と思って読みだしたら、すごく面白かったんです。それがきっかけで好きになりました。
最初に読んだのは『本当の戦争の話をしよう』でした。ティム・オブライエンのすごく好きなところって、「お前、そろそろやめろよ」というくらい、ずっとベトナム戦争のことを書いているんですよ。自分自身が従軍したということもあるんでしょうけれど、僕が書き手だったら自分でも「さすがにこの題材は書きすぎてる」って止めるんじゃないかなと思うんです。それでも書き続けるというのは、それくらい本人にとって大きなことだったんだろうと思うし、同時にそれをやっちゃうオブライエンの正直さ、「自分の気持ちに従うぜ」という不器用さがすごく好きで。

あと、オブライエンも喪失と過去の傷について書いているんですね。それに「形が違うだけで、誰しもに戦争がある」というふうに言っている。自分にとっては、たまたまこういう形だっただけのことなんだって。それはなるほどなって思うんですよね。
過去の何かが自分の今にすごく大きな影を落としていたりとか、自分の人格形成の元になっていたりする。オブライエンの小説を繰り返し読む中で、どうやら自分は、そういう過去の傷だったり喪失を物語化しているもの、あるいは文章化しているものに興味があるんだということに気づきました。それからもうひとつ分かったのは、自分はどうやら「死」というものに関する本を好んでるんだなということです。青木新門さんの『納棺夫日記』とかありますよね。

―はい。映画「おくりびと」の原案となった本ですよね。

白岩:その『納棺夫日記』とか、養老孟司さんの解剖学の本も読みましたし。それと、戦争の時にシベリアに抑留された経験を元に詩を書かれていた、詩人の石原吉郎さんの「葬式列車」っていう詩も好きでした。でも、考えてみれば、もともと好きだった宗教の本も当然死について触れているし、文化人類学の本では葬式とか埋葬のことが書かれているんですよね。。
そこから自分の中を掘り下げていくと、僕、6歳の時に父親を亡くしているんですけれど、その経験が自分で消化しきれていないんだろうなという。突然だったんですよ。前兆があったわけではなく、突然、喘息の発作で亡くなったんです。よくよく思い返してみると、自分が文章を書くようになったのも、そういうことの影響がどこかにあるんです。父親が亡くなった頃から、世界が若干遠く感じるようになったというか、自分が越えられない壁があるなと感じるようになった気がして。それを突破する方法として、人に届く文章を書くことにのめり込んだり、一方で死というもののとらえ方が自分に合っている読み物を好むようになったんじゃないかなって。

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