デビュー作『百年泥』で新潮新人賞・芥川賞W受賞の石井遊佳さん「作家の読書道」インタビュー(WEB本の雑誌)

新潮新人賞を受賞したデビュー作『百年泥』が芥川賞を受賞、一躍時の人となった石井遊佳さん。幼い頃から本を読むのが好きだった彼女が愛読していた本とは? 10代の頃は小説を書けなかった理由とは?インドのチェンナイで日本語教師となる経緯など、これまでの来し方を含めてたっぷり語ってくださいました。

取材・文/瀧井朝世 ―WEB本の雑誌「作家の読書道」2018年5月16日

石井遊佳(いしい・ゆうか)さんについて

1963年11月大阪府枚方市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。日本語教師。2017年『百年泥』で新潮新人賞、第158回芥川龍之介賞を受賞。インド、タミル・ナードゥ州チェンナイ市在住。

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その1「お寺の書架で読書にふける」

―一番古い読書の記憶から教えてください。

石井:一番古いかどうか分からないんですけれど、私、小学校に入った頃くらいから浄土真宗のお寺の日曜学校に行っていたんですよ。みんなで在家さん向けのお経を音読して、和尚さんではなく奥さんがちょっとしたお話をしてくれる会があったんです。そこのお寺に大きな書架があって、お話の本がいっぱいあったんです。私はそこにペタリと座り込んで、お勤めの時も出ていかずに、名前を呼ばれても気づかないくらい没入して本を読みふけっていました。全部終わると最後に仏様のお下がりのお菓子でティーブレイクするんですけれど、その時になると本を置いて出てくるという、とんでもないガキでした。読書に耽溺した最古の思い出はそのへんからかもしれないです。

―へええ。お寺にはどんな本があったんでしょう。

石井:お寺だから親鸞様の小さい頃のお話とか、お釈迦様の事績の本とか、仏教説話もあったんじゃないかな。ご信徒さん用の普及版とか。だから後々仏教を学ぶようになったわけではないんだけれども(笑)。普通の、子ども向けのお話の本もありました。自然にお寺に集まる本を置いてあるみたいな感じだったと思います。内容は憶えていないんですけれど、私は字だったらなんでも好きなんですよね。もちろんその頃は大人用の難しい漢字が沢山ある本は読まなかったと思います。

―字を読むのが好きだったんですか。では、家でもずっと本を読んでいるような子だったのでしょうか。

石井:いや、外でも遊んでいました。私たちの頃だと「一段」というゴム飛びや、ドッチボールが流行っていましたね。虚弱というわけでもなかったので、外でも遊ぶし、本もめっちゃ好きっていう子どもでした。小学校の3~4年の頃の担任の先生が子どもに読書させること熱心に推進していて、「どれだけ本を読んだ」という棒グラフで生徒を競わせたりしていて。そのやり方はどうかと思うんだけれど、私はそれでいつも1番でした。教室の中にもいっぱい本があって、恵まれていましたね。携帯もないし、他にすることもないし。
家にも本は充満していたんですよ。というのも、うちの母が子どもの本を広めるために図書館の分室を開設する運動をやっていて、一時的に自宅に本を置いていた時期があったんです。うち、めちゃめちゃ狭かったんですよ。時計眼鏡店をやっていて、その裏の、普通に見たら物置きみたいなところに一家4人住んでいて、そこに本を置くからすごい状態になっていて。はっきり言ってうちは貧乏でしたが、本に関しては大富豪。手を伸ばせば本があって、好きなだけ読むことができました。貧しいけれど豊か、みたいな不思議な感じですね。これで短篇が書けるなと思っているんですけれど。

―どんな本が多かったか憶えていますか。お話なのか、伝記とかなのか。

石井:お話と伝記、どちらも読みました。伝記は福沢諭吉とかリンカーンとかキュリー夫人とか。お話は海外のものもあったけれど、やっぱり日本の話が好きだったかな。憶えているのは、ある時期から江戸時代の農民ものが好きになって。

―農民もの?

石井:年貢に苦しめられて一揆をして首謀者が殺されて、みたいなリアルな話。子ども向けでそういう本もいっぱいありました。本当にキラキラした童話も嫌いじゃないけれど、小学校も後のほうになってくると、もうちょっと現実的な話が好きになったのかな。まあ、現実といっても江戸時代の話なんだけど。

―読書感想文なども得意でしたか。

石井:読むほど得意ではないんですけれど、書くことに興味を持ちだしたのは、小学校の終わり頃ですね。5~6年生の時の先生が書かせることにすごく熱心で、いろいろ書かせられたんですよ。で、「詩を書きなさい」と言われて、詩を書くのがすごく好きになりました。今から思うとわりと大人びた詩を書いていましたね。自分の内面感覚というのかな。たとえばプールのことを書く時も、プールでパシャパシャした、というよりも、ちょっと寒い日なんかにプールから上がってきて身体を屈めていたら、身体の中でほのかな熱がどこからどこに伝わったとか、そんなことを書いていた気がする。だから、そういう形でものを書くことに意識的になりましたが、小説を書く次元ではなかったです。

―中学校時代はいかがでしょう。

石井:小学校までは大阪府の枚方市にいたんですけれど、中学校から大阪市内に引っ越したんですよね。そこに行ってからいわゆる子どもの本から大人の本への移行がうまくいかなくて。中学くらいはあまり本を読まなかったですね。漫画ばっかり読んでいたので、その頃は漫画家になりたかったんですけれど(笑)。諸星大二郎とか好きだったんですよ。『暗黒神話』とか『妖怪ハンター』とか。ずっと後になって、たぶんもう私が学生時代になって『西遊妖猿伝』という、『西遊記』にまつわる漫画なんか描いてたけど、それはちゃんと読んでない。

小学校の頃から本も読んでいたけれど、漫画も読んでいたんです。どこかに行くと漫画が置いてあるから。通っていたヤマハ音楽教室にもあったし、家にお風呂がなかったから銭湯に行ったら少年漫画が読めた。床屋に行っても少年漫画がありましたね。「マガジン」も「ジャンプ」も読みました。
それで、中学校になったら読むのは漫画だけになっちゃって。先生もうまく指導してくれなくて、本は何を読んだらいいのか分からなかったんです。でも、いい本は読んでいたんですよ。水上勉さんの『雁の寺』。これは母から「読みなさい」と言われて。あと、有吉佐和子さんの『非色』。その2冊は読んだ。そのくらいかな。

その2「1人1冊読書」

―再び読書するようになるのは。

石井:高校になってから本当に本格的に読むようになりました。新潮文庫の、背表紙がオレンジのラインですね。三島由紀夫です。はじめに『金閣寺』を読んで、そこから10冊くらいどーっと読んで、それからは1人の作家ばかり読むのもなんだなと思って、「1人1冊」シリーズっていうのをしばらく続けて、あとは適当。

―いろんな作家の本を1冊ずつ読んでいくわけですね、なるほど。三島を手に取ったのは何か理由があったのですか。

石井:やっぱり、家にあったんじゃないかな。母が読書家でもないけれど意識的に本を読もうという気持ちを持った人で、いい本はとりあえず買っておくんです。だから円地文子の『源氏物語』の訳とか丸谷才一の『文章読本』とかありましたし。それで、三島の『金閣寺』があったんだと思います。三島は韜晦な言葉がいっぱい出てくるけれど、私は難しいと思わないんですね。リズム感もあるし言葉の選び方とかがすごく好きです。全部の作品がいいわけじゃなくて感心しないのもありますね。インドに行く時に連れて行ったのは『愛の渇き』なんですけれど、他は『宴のあと』とか、『豊穣の海』の1巻目の『春の雪』は日本文学が到達した最高の境地だと思いますけれど、2巻以降がなぜあんなになっちゃうんだろう、みたいな。

著者 : 丸谷才一
中央公論社
発売日 : 1995-11-18

―1人1冊の他の作家はどのように選んでいたのですか。

石井:他の作家は、本屋さんに行って選んでいました。全然読んでいなかったので、やっぱり有名な人から。安部公房とか井上靖とか。1人1冊なら読めるだろうと思って。気に入ったのは開高健さん。その時は芥川賞をお取りになった『裸の王様』1冊だけ読んだんですけれど、後に本当に好きになって大学時代になってから何冊か読みました。『ロマネ・コンティ・一九三五年』は今回チェンナイへ持って行ったくらいだから、好きな作家の1人ですよね。あれは半ばエッセイ、半ば小説みたいな感じですよね。言葉が生き生きしているから勉強になります。エッセイの『破れた繭 耳の物語』も好きです。子ども時代の話で、大阪で川とかそこらへん転げまわって遊んだ話とか、戦争時代になって食べるものに困ってお母さんと買い出しに行ったとか、そんな話ですけれどものすごく好きです。影響を受けたのが開高さん1人だけというわけではないんですけれど、自分自身の文体とか、文章の上のリズムとかを形成する時期に沢山読んで、私を形作っている要素のひとつにはなっている人だと思います。セリーヌの『夜の果てへの旅』も、下巻のほうが好きで、下巻だけインドに連れて行きました。インドの自分のパソコンの横に置いている何冊かのうちの1冊です。翻訳によって全然違うんですが、生田耕作さんの訳が素晴らしくて。言葉の力は素晴らしいし、テンポとかリズムとか、あれからもいただいているものが沢山あります。

―そうやっていろいろ読んでいく一方で、書いたりはしなかったのですか。

石井:そうやってどーっと読むと、吸い込んだものを吐き出すような形で、すごく書くようになりました。はじめは身辺雑記というか、日記ですね。日記という形で、自分の見たこと、感じたことを書いていくという。やっぱり10代の頃って感受性が非常に豊かだから、無限に書けるんですよね。その時は創作じゃなくて、とにかく見たこと感じたことをそのまま書こうとしていました。今でも憶えているのは、「人間は嘘をついちゃいけないと育てられているのに、どうして嘘を書いていいのか」というふうに思っていたんです。だから、小説は嘘だから書けないんです。その頃の感性だったら見たこと感じたことで無限に書けるのに、なんでわざわざ作らなくちゃいけないんだ、とも感じてましたね。それで充分自己表現をしていました。言葉をいろいろ組み合わせるのが大好きで。

―見たこと感じたことをそのまま書くということは、例えば目に見えるものを写実的に表現したりとか?

石井:そうですね。たとえば今、目の前に紅茶のカップがありますけれど、それをどれだけ書けるかってことですよね。どんな色だとか、どんな佇まいだとか、どんな形だとか。別に勉強しようと思って書くんじゃなくて、やっぱり楽しくてやっていました。絵が好きな人はやっぱり自分がもっとうまくなりたくて一生懸命描くじゃないですか。それと一緒でした。自分の感情も書きましたよ。気持ちはコロコロ変わるので、無限に書けますよね。

―それを書き留めた高校時代のノート、今もありますか。

石井:いや、もうないですね。あればよかったですね。読んでみたい。あ、その頃、めちゃめちゃ国語辞書を引いて読んでいました。やっぱり言葉をいっぱい憶えたいし、言葉を定義するのが面白かったんです。井上ひさしさんの言葉で「辞痴」という言葉があるのを知って「ああ、私だ」と思いました。「辞書に溺れ込む人のことを辞痴という」と言っていて、井上さんは自分もそうだとか言っていて。私も辞書が異様に好きでした。だから変なこともしましたね。ドストエフスキーは『罪と罰』だけ読んだんですけれど、出てくる難しめの言葉を全部引いたりとか。勉強とかでなく、単なる楽しみとしてやっていました。

―へええ。

石井:今思うと不思議な生活だったなと思います。私、中学では割と勉強ができたんで大阪では一応御三家と言われる高校に進んだけれど、高校でいきなり落ちこぼれたんです。まわりが自分以上に頭のいい人ばかりだから。なので本ばかり読んでいたのは、勉強からの逃避という意味もあったのかもしれません。大阪城の近くの高校だったので、窓から大阪城を見ながら本を読んでいました。それで3年間を過ごして、当然のことながら浪人ということになって、それからは本を読むことはちょっと控えて。でも、日本史を選択したので、日本史に関係ある本ならいいだろうということで、永井路子さんとか、瀬戸内晴美さんの『祇園女御』とか、平安時代とか鎌倉時代とか室町時代とかを舞台とした小説を読んでいました。ああいう小説って、読んでいると自然にいろんな歴史的な過程が頭に入るじゃないですか。だから、それは予備校の行き帰りに電車の中で読んでいました。読書時間は別に取る時間もなかったので、受験自体はちゃんと真面目に勉強して。

―読書記録はつけていましたか。

石井:全然つけていないですね。記録癖はないですね。でも書いておけばよかった。日記も今、全然書いていなくて。インドに行ってからは毎日仕事場に行くから目の前にパソコンがあるので、わりと日記を書いていたんです。でも、芥川賞をいただいて、先月日本に来てからは、二度とないような変転に満ちた日々を送ってきているのに、全然書いてない。「ただ忙しかった。終わり」みたいな感じで。でもレシートの裏とかに書き留めたものが残っているから、後で再構成しようかと……いえ、どうせやらないわ(笑)。日記を書く癖がついていればよかったなと思います。一文でも書いておけば、後で見て思い出せたのに。

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