デビュー作『百年泥』で新潮新人賞・芥川賞W受賞の石井遊佳さん「作家の読書道」インタビュー(WEB本の雑誌)

その5「仏教を学ぶ&インドへ」

―一度最終選考に残ると、いけるかもしれない、という気持ちになりますよね。

石井:そうですね。草津から帰った後も長野の山田温泉の仲居になったりしたんですけれど、そのくらいからもう大阪に戻って真面目に書いて投稿生活をしようと思って。2~3年やってもなかなか駄目で。でもまだ若いせいでいくら落ちてもなんとも思わなくて。その頃、小説を書く参考文献が必要になると図書館に行って一生懸命読んでいて、たいていのことは「分かった」と思うんですけれど、ひとつ、何度読んでも分からないことがあって、それが仏教だったんです。だから仏教を勉強しなきゃいけないなとしみじみ思って、もう一度大学に入って勉強したい気持ちがもともとあったのもあって、その時たしか36歳だったんですが、東京大学の印度哲学仏教学科というところに学士入学したんです。日本人として生まれたからには日本文化の根底の部分を形作っている大切なものをまったく分からないのもどうかなと思ったんです。で、入ったらやっぱり古典学なので、語学的な鍛錬が大事なんですよ。原書を読みこなすことが趣旨の学科なので。例えば同じ仏教を勉強するといってもいろんなアプローチの仕方があって、宗教学のアプローチはまた全然違うんです。でも印哲の場合はまず自分の専門を決めて、インド仏教ならサンスクリット語、パーリ仏教だったらパーリ語、中国仏教だったら漢文、日本仏教だったら日本の古い言葉をきちんと鍛錬しなくちゃいけないし、しかも選ばなかったとしてもサンスクリット語とパーリ語は必修なんです。それらは古典語なので、めちゃくちゃ大変なんですよ。近代になると文法が整理されて単純化し、シンプルな言葉になってくるのに、古代語って基本的なところを一通り憶えるのが大変で。たとえばサンスクリット語って、ひとつの動詞の形が72通りあったりするとかするんですよ。

―ふむ。

石井:そこ、驚くところですよ。椅子から転げ落ちるところです(笑)。

―いやいやいやいや、驚いてますよ!(笑)

石井:基本の印度哲学からやりたいのに、サンスクリット語が無理だから、あ、駄目だと思って、面白い先生がいたので中国仏教にしました。中国語も発音とかを教え込まれて大変で、小説なんて完全にぶっ飛びました。日記的なものは、日々印象に残ったことを書いていましたが。
私の旦那は私よりも1年くらい後に入ってきた人で、私は学士入学ですけれど彼は大学院からで、だから1年後に来たけれど先輩みたいなもので、彼にサンスクリット語とかを教わったんですけれど、全然できるようになりませんでした。修士3年のとき結婚、修士論文を書いて博士課程に入って、学会発表も終わらせ、いよいよこれから本格的に勉強という時に、彼がインド留学を決めたのでついていくことになっちゃって。そこで自分の専門をぶん投げてしまったので、5年半の苦労が全部ふいになりました。

―それでインドに行ったのですね。

石井:インドのヴァーラーナシーというところに行くことになり、新たにヒンディー語を勉強しはじめたりして。向こうに行って、彼はBHU(Banaras Hindu University)のサンスクリット語の先生について学校に行ったりするんですけれど、私は家にいるだけなのでそこらへんをウロウロして。ガンジス川の近くの、有名な聖地なんですよ。昔はベナレスと呼ばれていた場所です。ですけれど、ウロウロしていたら変な奴がわーっとやって来てひどい目にあったり、北インドだから冬寒かったり、毎日停電したりして。それで暇だということもあって、小説を書き始めたんですよ。2006年から09年までそんな感じでした。彼は3年間ヴァーラーナシーで勉強していましたが、私はあまりに暑い時は私だけ日本に帰ってきたりして、行ったり来たりをしていました。2009年に日本に帰ってきて、その時に朝日カルチャーセンターで小説講座的なものを見つけて、あまりそういうのは好きじゃなかったけれど、自分のペースを作る意味でも「こういうのに行ってみるのもいいかな」と思いました。2週間に1回授業があって、そこで提出できるから、やってみよかな、と。講師の方が小説家と元編集者の方と2人いて、「こういうのを教えてもらうのは編集者のほうがいいかな」と思って、根本先生にお会いしたんです。

―根本昌夫さん。文芸誌「海燕」の元編集長だった方ですよね。奇遇にも、芥川賞を同時受賞された若竹千佐子さんも別の場所で根本先生の教室に通っていたという。

石井:そうです。そこに通って1~2か月して、自分で分かったんですよ、自分が化けていくのが。全然違う地平線が見えたというか。不思議ですよね。別にすごくいいことをバシバシ言われるわけじゃないんですけれど、根本先生って「この人についていこう」と思わせる何かがあるんですよ。それで本気になって書きだして、2週間に1度小説を出し続けて、1~2か月経った頃に根本先生が「ああ、あなたはプロになれますよ」って言ってくださったんですね。なのに、1回も受からないんですよ。一次選考にも残らない。それが42~3歳の頃かな。だから、意外と長くは教室に通っていないんですよ。たぶん、1年半くらいか、2年弱。それからあとは「通わなくても原稿送ってくれたら読みますよ」とおっしゃってくださったんですけれど、そういうするうちに2011年になって東日本大震災が起きましたよね。それで、当初ネットのみで拡散されていた、放射能汚染のことを知った旦那が「インドに逃げよう」と言いだして。彼はまだ博士課程に在籍していて学位論文を出す準備をしている時で、インドにも行く予定だったんですけれどそれを前倒ししたいと言い出して。インドってその当時、再入国禁止の規定があったんです。一度出国すると3か月再入国できない規定があって、それにひっかかるのでまずじゃあ隣のネパールに行こうとなりました。カトマンドゥだったら自由で観光客も多いし、腰掛で居やすいからいいよ、ということで。
何か月かいたらインドに行くつもりだったんですけれど、私、カトマンドゥが気に入っちゃって。というのも、ネパールって貧しい国なので、日本に学生として行ってバイトして稼ぎたい人がいっぱいるんです。高校を出たばかりの若い子がバイトに行くようなものです。でも私が聞いた限りでは、ネパールの人については何百時間か、規定時間数以上地元の日本語学校で日本語を勉強した人しかスチューデントビザがおりない決まりがある。日本に行く時の審査が厳しいんです。そのためにカトマンドゥには日本語学校がたくさんある。それで、知り合った人の友達が日本語学校の校長先生で、「日本人なら教えて」と言われ、それが私の日本語教師という職業との出会いでした。それまでまったくそんなことやったこともないので、何の知識もないままに教科書持って日本語を話すだけという感じでした。聞く方も、スチューデントビザがほしいだけだから、はっきり言って聞いてないんですよ。なのでただ雑談とかして遊んでいたようなものです。結局旦那は1人でインドに行ってその後1人で帰国、1年後私も日本に帰ったんですが、こういった経緯で彼も私のアクションを通じて日本語教師という選択肢があることに気が付いたんです。それで彼は帰国してから日本語教師の学校に行って資格も取り、その学校にある就職を斡旋する部にインドからの求人が来ないか待っていたんです。

その6「チェンナイでの執筆と読書」

―どうしてもインドに行きたい、と。

石井:私は行く気はないんですけれど彼は虎視眈々と狙っていて、そのために日本語教師になったわけです。彼ももう大学は辞めているし学位論文もたぶんもう出さないだろうけれど、サンスクリット語を極めたいので、そのためにはインドにいたほうが勉強の機会があるんですよね。大学の先生に聞きに行ったり、シンポジウムがあったり、いろいろイベントがあるので、彼はインドに行きたいわけです。そうしたらたまたまチェンナイから求人があって、面接だけ受けに行ったんですね。希望者も多いし駄目だろうと思っていたら、一応学歴はあるしヴァーラーナシーにいたこともあるし、面接に来た会社の人に「妻もネパールで日本語教師をやっていたんですよ」と話したりで、「お二人で来てください」という話になっちゃって。勝手に決められたんです。旦那にいきなり「決まったから一緒に行くからね」しれっと言われて「聞いてない」と思って。
それで、2015年に南インドのチェンナイに行くことになって。私は日本語教師としての教育をまったく受けていないんです。ネパールの時はほとんどボランティアだったので適当にやっていたんだけれど、今度はお金をもらって、日本語学校ではなくIT企業内部の研修の一環としてやることになったんですね。そこの会社は日本にも支社があってこっちに来る人も多いので、必要があって仕事の合間に日本語を勉強させているんです。だからちゃんとやらなくちゃいけないんで、毎日毎日、次の日に何をやるかっていう、教案作りで必死で、土日も休めなくて、だからもう小説どころではなくて。3年くらいそんな思いをしたのかな。チェンナイに行くまでの時期もずっと働いていたので、ちょっと思いついたら1節を書くとか、ある場面だけを書くとかいったメモ書き程度はしていたんですけれど、下手したら4~5年まともに小説を書いてなかったかもしれないです。そんな状態でいた時に、たまたま2~3か月授業が空いたんですね。彼らはプロジェクト単位で動いていて、プロジェクトとプロジェクトの合間に時間があったら日本語を勉強しなさいってことで朝から晩まで日本語漬けになるんですけれど、仕事が混んでいる時はまったくできないので、そういうふうに空いてしまう時期もあるんですね。それまで教室で面白いことがあったらメモしていましたし、洪水のこともあったので、「書けー!」と思って書きました。

―デビュー作にして芥川賞受賞作の『百年泥』は、チェンナイに日本語教師としてきた主人公が洪水で数日間家に閉じ込められ、水が引いた朝に出かける時の光景を描いたものですよね。その洪水も実体験だったという。

石井:そうです。もうそれまで結構長い期間本格的に書いていなかったんですが、奇跡的に書けたんですよ。それで3月末の締切がいくつかあったので、新潮新人賞ともうひとつ出して、そちらは落ちたけれど新潮社からは7月くらいに「最終選考に残った」ってお知らせをいただいて。たまたま日本に1か月くらい帰る予定の時期だったので、編集者にもお会いしてできました。チェンナイへ戻ってからもいろんな文芸誌にエッセイとかも書かせていただいて、そうこうしているうちに芥川賞をいただいて、あれよあれよという間に生活が激変しました。

―まさに急展開ですね。ところでチェンナイに転居する際に、本を厳選して持っていかれたようですね。開高さんの『ロマネ・コンティ・一九三五年』とか…。

石井:開高さんはそれで、あとは三島の『愛の渇き』、中勘助の『銀の匙』、セリーヌの『夜の果てへの旅』、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』と『族長の秋』。それくらいかな。

著者 : 中勘助
岩波書店
発売日 : 1999-05-17

―チェンナイでは日本語の本の入手は難しいですか。

石井:無理ですね。どうしてもといえばamazonで買って親元に送り、それを送ってもらっています。帰ってきた時にいっぱい買って送りもします。ここまで言いませんでしたが、じつは私、エンタメ系もよく読むんですね。選び方はいい加減で、amazonで下のほうに関連本として出てくるものを見てアットランダムに選んでいるだけなんですけれど。わりと読んでいたのは横山秀夫さん。『半落ち』を前に読んで面白かったから。他には、雫井脩介さんとか、奥田英朗さんとか、ずいぶんインドで英気をもらいました。

―じゃあ、インドでの読書生活をいうと、同じ本を繰り返し読んだりとか?

石井:自分の小説を書く時、書きだす前にリズムを整えたいんですね。セリーヌを読んだりガルシア=マルケスを読んだりして、自分の文を書く感じなんですよ。それとは別に息抜きで読む本もあって、それが結構エンタメ系の人なんです。

―『百年泥』はマジックリアリズムを感じさせる内容ですが、やはりマルケスなどの影響があると思いますか。

石井:そうなるんだろうと思いますけれど。本当に自分が好きなくだりを何回も何回も読んだりするので、もう完全に内面化しちゃってて、書いていると出てくるんですよ。マジックリアリズムの手法を用いてここを書きましたという感覚は全然なくて、書いているうちにけったいなことが自然に出てくる感じです。むしろリアリスティックなところのほうがちゃんと考えて書いているところがありますね。

―確かに計算では書けない感じですよね。空を飛んで通勤する、とか。

石井:読んだ人から「インドでは本当に飛翔通勤するんですか」と訊かれるんですけれど、もちろんしません(笑)。当たり前のように書いているから「あれ、もしかしたら」と思うようです。

―さて、お時間も迫りましたので、今後の予定をお聞かせください。

石井:まだ、いつインドに戻るか決めていないんですよ。日本語教師も体力的にきついですし、せっかく芥川賞をいただいたので作家に専念したいと思っておりますので、そろそろ日本語教師からはおいとましようかと。旦那は引き続き同じ会社で教えていますから、その会社の日本の支社で何かできることはあるか訊いてみようかなって。インドには旦那もいるし荷物もいっぱいあるので時々行くけれど、今後はできれば日本中心で活動できればと考えております。
今は、次の小説を血を吐きながら書いているんですよ(笑)。またインドものということで。頑張ります。

<了>


この記事のライター

瀧井朝世瀧井朝世

1970年生まれ。WEB本の雑誌「作家の読書道」、『波』『きらら』『週刊新潮』『anan』『CREA』『SPRiNG』『小説宝石』『ミステリーズ!』『読楽』『小説現代』『小説幻冬』などで作家インタビュー、書評、対談企画などを担当。2009年~2013年にTBS系「王様のブランチ」ブックコーナーに出演。現在は同コーナーのブレーンを務める。ラカグ「新潮読書クラブ」司会、BUKATSUDO「贅沢な読書会」モデレーター。著書に『偏愛読書トライアングル』(新潮社)。

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