『屍人荘の殺人』を書くまでにミステリを100冊読んでみた―「作家の読者道」今村昌弘さんインタビュー

その3「大学の専攻を決めた理由」

―大学は医学部の保健学科放射線技術科学専攻とのことですが、なぜそこを選ばれたのですか。

今村:受験を控えて進路を決めなくてはいけなかったけれど、特にやりたいことがなくて。自分はあまりサラリーマンには向いていないだろうと感じていたのですが、やりたいこともない。それで、いつかやりたいことがみつかった時、ちゃんと足場を固めておいたほうがほうがいいなと考えて、何かの資格を取ることにしたんです。何の資格がいいかなと思った時、少子高齢化の時代なので医療系は固いだろう、と。

でも医療系の仕事は人の命に携わることなので、生半可な覚悟ではできない。医者は当然無理だし、看護師さんも、こういう考え方をしている時点で自分は人の面倒見がいいとは思えないし……と迷っていた時に母親から「レントゲン撮る人はどう」と言われたんです。「あのボタン押してる人」って。それはいいなあと、結構軽い考えで道を選びました。

―そもそもサラリーマンに向いていないと思ったのはなぜですか。

今村:あまり人の指示を聞かない(笑)。自分の考えで動くことはできるんですけれど、あまり、人に言われたことを聞くような道を歩んではこなかったんです。もちろん、ちゃんと勉強したり、制服のホックをきちんと留めるということはしていたんですけれど、それは先生の言うことを聞いていたわけではなくて、そっちのほうが波風立たないとか、労力を使ってまで違反する理由はないとか、そういうことだったので。いろんな人がいる会社に入って、人の下について与えられるものを待つというのは自分の望むやり方じゃないなあと。ほしいものは自分で手に入れると言ったら偉そうになりますけれど、あまり人に頼っても面白くないだろうな、という部分がありました。

―そういう性格だということは、小中高と、クラスの中でどういう立ち位置でしたか? リーダー格でした?

今村:完全にリーダー格ですね。中高と、バレーボール部でもキャプテンでした。小学校の時もサッカーでキャプテンをやらされていたんですけれども。

―なるほど。それと、小さい頃から将来なりたいものはなかったのでしょうか。高校は理系コースだったわけですが、それもなんとなく?

今村:中学の時は考古学者に憧れましたが、親に「そんなことでは暮らしていけない。理系の道に進め」と言われて、なんとなく選んだという。
 そこまで労力を費やしてやりたいことがなかったんです。自分が体育会系だったから思うのかもしれませんが、結局スポーツって最終的に勝ち進められるのは1人じゃないですか。どれだけ努力してもどんどん負けていって、最後に1人になる。僕は別にスポーツ選手になりたかったわけでもないし、負けてもそこまで悲しむことはなかったんですけれど、勝つことの難しさは知っていて。たとえば高校野球は、夏の甲子園目指すにはまず強豪校に入らなくていけなくて、入ってもスタメンの9人に入らなければならなくて、さらに県内で他の学校を倒して1番にならなくてはいけなくて、ようやく甲子園に行くとなっても、高校3年間のたった3回しか挑戦権がない。そのためにどれだけの練習や時間を費やすのかっていう。自分が同じだけのエネルギーを費やしてやりたいことは何だろうと考えると、本当になかったんです。

―そこでやりたいことが見つからない、と焦りを感じる人もいると思うんです。でも、焦らずに先に足場を固めることを考えるところが冷静ですね。

今村:ひねているのか分からないですけれど、昔から「そんなに甘いものじゃないだろう」というのはどこかにあります。自分にふさわしい仕事とか、自分にしかできないこととか、そういうものを若者はみんな求めると思うけれど、僕は「そんなうまいこと見つかるわけない」とか「そんな簡単に物語の主人公になれるはずがない」と考えてしまいます。だから大きな成果を残した人に対して「あいつ天才だな」と簡単に言っているのを聞くと、「いや、誰もあの人ほど努力をしていないだけだろう」と思います。

―小説を書く、ということはその当時まったく考えたことはなかったのですか。

今村:なかったですね。当時は全然書いてもいなかったですし。でも、部活をしていると人と話す機会は毎日あって、人を笑わせるのは楽しかったです。だから、人を楽しませるのは好きだったんだなと思います。

その4「働きながら投稿していたけれど…」

―では、その後の読書遍歴や小説を書くきっかけについては。

今村:大学4年の国家試験の時にはじめて小説を書き始めました。試験勉強が嫌になって、途中まではマインスイーパをずっとやっていたんですが(笑)、結局4マス残ったらどうしようもないと気づいたのでマインスイーパはやめて、小説を書いたりしていました。

就職してからも、気晴らしのために書いていました。そうしたなかで、やっぱり自分は何かを作って人を楽しませることがしたいなと思ったんですよね。ただ、自分は音楽もやってこなかったし絵が描けるわけでもないから、できることは限られている。それで、ものすごく根本的な文章を書くということならなんとかできるかな、と思ったんです。

最初はファンタジーっぽいものを書きました。自分の好きなロボットが出てくるSFはちゃんと電気工学などの知識がある人じゃないと書けないだろうと感じていたし、ミステリは無理だろうと思っていて、結局自分の妄想で何かをカバーできるのはファンタジーやホラーだと思って。どんな原因で幽霊が出てくるかなんて、なんでもいいじゃないですか。そこに科学的な根拠を混ぜる必要はないので、自分でもカバーできるんじゃないかと思って書いていたんですが、なかなかうまくいきませんでした。

―新人賞に応募はしていたのですか。

今村:働きながらなので長篇が書けず、短編賞ばかり狙っていました。でも手あたり次第送るということはせずに、自分は軽いタッチの作品が合っていると思っていたので、ライトノベルの賞を調べて送っていました。

―就職はどのようなところに?

今村:最初に就職したのはある自動車会社でした。検診車でその自動車会社の各工場に行って、胸部写真を撮りまくる。同級生は検査課がある大病院に就職して、いろんなスキルを身に着けて何年後かに別の病院に行く、というのが通常なんですけれど、僕はそもそも仕事に対するモチベ―チョンが低かったので。でもそこは胸部写真とバリウム検査しかしないので、さすがにこの先が不安だと思い、ちょっとだけレベルを上げて整形外科クリニックに移りました。人の死を看取るとか、重病の人を受け入れるという病院に行きたいわけではないけれど、各部のレントゲンだけはちゃんと撮れるようになろうと思って。 

―投稿生活するなかで、どのように気持ちは変化していきましたか。

今村:もっと上手くなりたいと思いました。一度送って駄目だった作品を読み直しているうちに「ここが変だな」と分かるようになり、それを直していくという作業をするようになって。少しはましなものを書けるようになった時、電撃の短篇の賞で2次選考まで通過できて、はじめて選評をいただいたんです。今まで家族にも友人にも書いていることは言っていなかったので、人の評価をもらうのが初めてでした。それはファンタジーといっていいのやらなにやらという作品でしたが、わりと選評では「キャラクターがきちんと書き分けられている」とか「長篇を書く力があるんじゃないか」といってもらえ、キャラクラーの書き分けも高評価だったので、「自分はもうちょっと頑張ればいいものが書けるんじゃないか。労力を費やせるものがようやく見つかったんじゃないか」と思ったんです。

それで、いろんな作家さんの、自分が書きたい文章をスクラップにまとめてみたり、自分が使ったことのない単語を抜き出したりしながら執筆を続けていましたが、働きながらなのでどうしても時間がない。1年かけてようやく「これで送っていいかな」と思えるものが1作できる、というペースで。そんなことをしているうちに29歳になりました。

大学時代の同級生は結構もう結婚もしていましたし、自分はようやく今、賭けてみたいものを見つけたけれど、この先もし結婚して家族を養うのに手一杯になったら、情熱を傾けることはできなくなる、と思って。昔と比べたら体力も落ちているし、頭もだんだん固くなっていく。このままでいたら、死ぬ間際に今のことを思いだして後悔するんじゃないかという気がしたんです。それに、クリニックでは少ない人数で一生懸命まわしていたんですが、医療法人になったタイミングでお給料が下がったんです。「一生懸命やってきたのに評価が下がるのか。それなら今やりたいことやらないと後悔する」と思い、辞めることにしました。ちょうど新しい人が入っていたこともあり「一人辞めても大丈夫そう」と思いましたし。

親とも相談して、3年間集中して頑張って、まったく結果を残せなかったらまた資格を使った仕事に戻る、ということにしました。職場も、給料は下げたものの理解があって、「あかんかったら戻ってきていいから」と言ってくれました。

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