WEB本の雑誌「作家の読書道」原田ひ香さんインタビュー

その3「大学では国文学を専攻」

――そして大学は国文科に進まれて。

原田:はい。堂々といろんなものを読むようになりました。というのも大学に入るまでは親に「本ばっかり読んで勉強しない」って怒られていたんです。今でも母がよく言うんです、家のいたるところに私の読みかけの本が置いてあったって。いろんな部屋に本が置いてあって、その部屋に行くとそれを読む。部屋を離れる時はその本を置いていき、別の部屋に行くとそこに置いてある別の本を読む。うちの母が片付けようとすると私が「そのままにしておいてよ」と言ってすごく怒ったって、今でも言われます。
 で、大学に入ってからは堂々と読むようになり、いい先生がいらっしゃったので中古文学にして、最終的には『更級日記』を学びました。その頃、秋山虔先生の『源氏物語』という新書が出ていたので読んだんですけれど、紫の上が光源氏に愛されて出世したのに子どもができず、結局女三宮に正妻の座も奪われる感じになるところに、人間には光と影があるんだなと思ったことをよく憶えています。
小説家になった後で講演を頼まれて大学に行った時に、当時の教授に「授業中いつも寝てるか本を読んでいるかのどちらかでしたね」って言われました(笑)。それはクラスの子にも言われたんですよね。だから小説家になったというのを聞いても、あまり驚かなかった、って。

――中古文学以外には、大学時代にはどのような読書を。

原田:村上さんは『ダンス・ダンス・ダンス』を出されてから、3年くらい新刊を出さなかったんですよね。だからあんまり読むものがあんまりなくて。でも当時流行っているものは読みました。シドニィ・シェルダンの超訳も流行っていたので読みましたし。

――図書館を利用したり、書店で買ったり?

原田:高校や大学の頃はアルバイトをして、結構本を買っていました。村上さんの『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が結構高かったのを覚えています。『ノルウェイの森』も自分で買って、クラス中の人に「貸して貸して」と言われて貸しました。でも筒井康隆さんの『残像に口紅を』は新刊では買えなくて、古本屋で買ったらすでに袋とじが開いていたんです。だから、古本屋さんも結構利用していたと思います。

――卒業後は、就職されたんですよね。

原田:横浜から東京駅まで東海道線で通っていたので、会社の行き帰りの電車の中で結構本を読みましたね。丸谷才一さんの新刊とか、いろいろ。その頃にアガサ・クリスティーあたりは全部読んだと思います。最近になって打ち合わせをしている時に、「何か謎があってそれで読者を引っ張っていくような小説を書いてください」と言われて、「でも私が全部読んだミステリーはクリスティーとホームズくらいしかない」と言ったら「そういう本格を期待しているわけじゃない」と言われて「あっ、そうですよね」って(笑)。ホームズや少年探偵団のシリーズは子ども用のものを図書館で借りて一連のものを読んでいたんですけれど。

――会社では秘書室に勤務されていたとか。

原田:そうです。そこで世界が広がったなと思います。当時は私が22歳で一番年下で、30歳くらいまでの先輩が5人いたんですけれど、みなさんいろんな趣味を持っている方たちで。宝塚好きだったり、歌舞伎好きだったり、映画好きだったりして、結構連れていってくれたんです。よく一緒に遊んでくれたなって思うんですけれど、それはすごく勉強になりました。もちろん厳しいところもあって、礼儀作法などもしっかり教えてもらって。私はその頃、谷崎潤一郎の『細雪』をめっちゃ面白く読んだので、逆に先輩に薦めたら、読んで「面白いね」と言ってくれて。秘書室に女性が5人いたので「うち、『細雪』っぽくないですか」と言ったりして。今でも、ああいう感じの秘書室の話が書けないかなとちょっと思いますね。先輩がお見合いをしたり、役員さんの紹介で男の人と会ったりして、そのことも姉妹のようにキャーキャー話していて。あの時代は本当に楽しかったです。

その4「シナリオライターになる」

――会社勤務を経て、シナリオを書き始めたそうですね。

原田:29歳の時に結婚したんですけれど、結婚してすぐに夫が北海道の帯広に転勤になったんです。その前にもちょっとだけ、何か書く仕事ができたらいいなと思って東京のフリーライター学校に通っていたんですけれど、実になることもなく帯広に行くことになってしまって。でも北海道でも、家にいながら何かできたらいいなとは思っていました。帯広ではありがたいことに歩いて行けるところに図書館があったんですね。私は当時車の免許を持っていなかったので、雪が降ると遠くには行けないんですけれど、その図書館には行けたんです。今は建て替わって大きな図書館になっているそうですが、当時は小さくて古くて、本を借りる人もあまりいなくて、なんでも待つ必要なく借りられたんです。ある時、知らないおじさんというかおじいちゃんみたいな人が、「横山秀夫、面白いよ」って話しかけてきたことがありました。「あの人はね、新聞記者だったんだよ。だからすごく面白いんだ」って。そのおじいさんには二度と会えなかったんですけれど、横山さんの本を読んだら本当にすごく面白かったです。
とにかく、そこで本を読んでいる時、「小説って文体が必要だよな」と思ったんですね。村上春樹さんも「小説家で大切なのは、1に体力、2に体力、3、4がなくて5に文体」っておっしゃっていたんです。それで、自分の文体が掴めないと小説は書けないけれど、シナリオだったら文体がなくても書けるんじゃないかなと思って。今から17年くらい前の話なので、ネットもそれほど発達していなかったんですけれど、ネットで検索したら「シナリオの書き方」をオープンにしている方がいらしたんです。「ゴリラ先生のシナリオ教室」だったか「ゴリラ先生のシナリオレッスン」だったかな。たぶん、プロのシナリオ作家の方だと思うんですけれど、「最初のワンシーンはこのように書く」とか、場所についてはこう書いて、台詞はこう書いて、というのがあって、そのまま書いてみたんですね。そしたら60枚のシナリオが書けたんですよ。「それをどこか、コンクールに応募してみよう」とあったので、それで応募したんです。
実を言うと私、映画はまあまあ見ていたんですけれど、ドラマはあまり見ていなくて。当時はいろんなシナリオコンクールがあったのでどこに送るか迷ったんですが、当時はフジテレビのドラマが人気だったので、夫に「フジに出しなよ」と言われ、フジテレビのヤングシナリオ大賞に出したら、最終選考に残ったんです。でもまだ北海道にいたので仕事につながらず、最終選考に残った、というだけでした。3年くらい経って東京に帰ってくることになった前後に、フジテレビから連絡があって「企画を書きませんか」と言われて、仕事が来るようになったんです。

――すごいですね。いきなりできるものですか。

原田:あまりにもシナリオのことを知らなかったのでシナリオ教室にしばらく通いました。その頃にラジオドラマというのがあると知り、そのためのシナリオを書いてコンクールに応募したら、賞を獲ったんです。そこからいわゆるプロットライターという仕事をするようになりました。

――賞というのは、第34回NHK創作ラジオドラマ脚本懸賞公募、現在の創作ラジオドラマ大賞ですね。第35回では湊かなえさんが受賞していますよね。

原田:そうなんです。湊さんが受賞された後で東京に来た時に、私は前年の受賞者ということで湊さんやNHKの方と一緒に食事に行ったりしました。湊さんはすでに『告白』の第一章の「聖職者」で小説推理新人賞を受賞されていて、「実は小説の賞を獲ったんです」と聞いて「え、すごいですね」って。その時私はもう「すばる」に応募していたんですけれどまだ選考途中で、受賞はしていなかったんです。湊さんの受賞作を読んだらすごく面白くて、「私、一番目のファンになる」と手紙かメールで書いたのを憶えています。だから、今も何万人もいる湊さんのファンの一番目は私だと思っているんですけれど(笑)。

――そうだったんですね。ところでプロットライターとは、具体的にどういうことをするのですか。

原田:それはいろんな本を読んで「これはドラマになりそうだ」と思うものをいろんな会社に提案させていただく仕事です。フジテレビとNHKのラジオと、TBSの子会社みたいなところにいろいろ企画を出しました。すごく忙しかったですね。毎週のようにプロデューサーから電話がかかってきて「何かいいのない?」という感じで。夜中に電話がきて「明日の企画会議に出すものない?」と言われたりして。2時間ドラマを3日で書いたこともありました。その頃に、今まで読んでいなかったエンターテインメント系のものも毎日読むようになりました。本屋さんに行って、「これ、ドラマになりそう」と思うものを探して買って、1、2日で読んで企画を出すという。当時は、直木賞の候補が発表された時点でもう候補作全作品読んでいたくらい。単行本になってからチェックしていたらもう原作権を取られた後だったりするので、雑誌連載の時から読んだりしていました。

――小説をドラマにする時って、多少アレンジを加えたりしますよね。

原田:今思うと本当に失礼なんですけれど、読んで「ドラマにするにはラストが少し弱いな」という時にちょっと盛る、ということはやっていましたね。結構泣けるようなラストにするとか、主人公を走らせるとか。それで「小説より面白くなってるよ」と言われていい気になっていたんですけれど、今、自分が時々ドラマ化の話をいただく時、企画書がすごく変えられていると、「あ、気持ちは分かるけれど、私の原作よりもこっちのほうが面白いって思ってやっているんだろうな」って悲しくなることがあって。自分も当時、失礼なことをしていたんだなと思います。
そういうプロットライターの仕事を1年半くらいしていたんですが、体力を使うし、精神的にも辛い仕事だったので、疲れ切って1週間くらいお休みをいただいたんですね。「風邪を引いた」と言って嘘をついて、旅行に行ったんです。

――ようやくとれたお休みだったんですね。

原田:そうです。その時に持っていった本が、保坂和志さんの『カンバセーション・ピース』でした。久し振りに読む純文学でした。それまで村上春樹さんの新刊も時間がなくて読めないような状態だったんです。『カンバセーション・ピース』はずっと会話が続いていて、ドラマになるような話じゃなかった。それで「もうドラマになるような話はもう読みたくないな」「私が読みたいし書きたいのはこういう話だよ」ってすごく思って。もうこの仕事は辞めよう、って。旅行は海外だったんですけれど、帰国してから今までの仕事先全部に「もう辞めます」って伝えました。それが秋で、結構引き留めていただいたりはしましたが、1月にくらいには全部辞めたのかな。
その時に、やっと小説に向き合おうって思ったんです。37歳になっていました。今までは、ちょっと逃げていたんですよね。「小説を書いてみたいな」と思いながらも「たぶん駄目だろう」と思っていて。もし小説で駄目だったら、もう自分にはなにもないっていうのもありましたし。でも辞めた1月頃に小説を書きはじめて、3月末が締切のすばる文学賞に応募して、それが賞をいただいて、デビューできました。賞を獲れなかったら迷走していたと思うので、ありがたかったです。

――それが2007年のすばる文学賞受賞作、『はじまらないティータイム』なんですね。

原田:あとから聞いたんですが、最初は最終選考に残ってなかったらしいんです。でもその時の編集長が「最終選考の数がそろわないな」と思って落ちたもののなかからいくつか拾って読んだものから私の原稿を選んで最終に入れてくれたらしくて、それで賞が獲れたので本当にラッキーでした。

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