WEB本の雑誌「作家の読書道」原田ひ香さんインタビュー

2007年に『はじまらないティータイム』ですばる文学賞を受賞してデビュー、『東京ロンダリング』や『人生オークション』、最新作『ランチ酒』などで話題を呼んできた原田ひ香さん。幼い頃、自分は理系だと思っていた原田さんが、小説家を志すまでにはさまざまな変遷が。その時々で心に響いた本について、教えてもらいました。

取材・文/瀧井朝世 ―WEB本の雑誌「作家の読書道」2018年2月20日

原田ひ香(はらだ・ひか)さんについて

1970年、神奈川県生れ。2006年、NHK 創作ラジオドラマ脚本懸賞公募にて最優秀作受賞。2007年、「はじまらないティータイム」ですばる文学賞を受賞してデビュー。著書に『東京ロンダリング』『三人屋』『母親ウエスタン』『虫たちの家』『ラジオ・ガガガ』『ランチ酒』などがある。

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その1「繰り返し読んだあの名作」

――一番古い読書の記憶といいますと。

原田:たぶん、最初に自分で選んだのが、小学校1年生くらいの時の『ファーブル昆虫記』とかじゃないかな、と思うんです。教室に置いてあって、クラスのみんなも読んでいて、「これ面白いよね」などと話した記憶があります。その影響もあったのか、私、小さい頃は昆虫学者や生物学者みたいなものになるつもりだったんですよ。勉強も理科や数学のほうができたので、高校生くらいまで自分は理系だと思っていました。父も理系で昆虫が好きで、甲虫などの専門書が家にあったので、それをよく見たり読んだりしていましたし。中学生くらいになるとだんだん数学もできなくなってきて、理系だというのは勘違いだと分かってきたんですけれど。

――国語はあまり好きではなかったのですか。

原田:国語の能力って、特別作文が上手とかでないと分からないですよね。なので「国語ができる」と思ったことはあまりなかったです。中学か高校の時に、ヘレン・ケラーの自伝か何かを読んで書いた作文で賞をもらったことはあるんですけれど、自分では特別うまいと思ったりはしませんでした。本はたくさん読んでいたんですけれど。

――どのような本を読んでいたのでしょう。

原田:よく憶えているのは灰谷健次郎さんの『兎の眼』や『太陽の子』。『兎の眼』を親戚の方からいただいて、それを母が夜、読み聞かせてくれたんですね。母が読んでくれたところは私も読めるようになったので、それから大人の小説を読むようになっていきました。それが小学校3年生くらいだったと思います。もうひとつ、よく憶えている本が1冊は、なぜかパール・バックの『大地』が家にあって、小学生時代はそれを何度も何度も繰り返し読んでいました。

――へえ。小学生にとっては大長篇ではないでしょうか。

原田:3部作が合本になったすごく厚い文庫みたいな本でした。特に第1部のところは繰り返し何度も読みました。最初に貧しい農民の王龍(ワンルン)という人が近所の御屋敷から奴隷の女の人をお嫁にもらってくるんですけれど、2人がはじめて会って家に連れて帰る途中で、王龍がお地蔵さんみたいなところでお線香に火をつけて、2人で供えるんですよね。そうするとそれがだんだんと灰になっていく。それまで2人はひと言も口をきかないんですが、奴隷だった女性が灰が長くなってきた時にぱっと指でそれを落として、「こうしてよかったのかな」という感じで彼の顔をうかがう場面があって。本では「この時この二人は結婚したのである」って書いてあったんですよ。子ども心に、「大人はこういうふうに結婚というものを表すんだな」と思いました。

――よく憶えていますねえ。

原田:2人の最初は結婚もうまくいくんです。飢饉などいろいろありますが、最終的にお金持ちになると、夫はその奴隷だった妻を捨てて第二夫人をもらってきたりする。そういう場面もすごく憶えています。ああ、こういう世界があるのかっていう。
 うちの両親は学生結婚で、本をいっぱい買ってくれる感じではなかったんです。でもそんなふうに私が本を読んでいたので、母が地元の新聞広告か何かに「子どもの本を譲ってくださらないでしょうか」というのを出したんですよ。そうしたらわりとご近所の方で、小学館の「少年少女世界の名作文学」をほぼ丸々譲ってくださる方がいらっしゃって。この間母に話したら、全然憶えていないというんですが(笑)、母がその家まで何度も自転車で行ったり来たりして、50冊くらいの本をもらってきてくれたんですよね。日本の話も含めて世界中の名作を集めた全集で、すごくありがたかったです。小学校や中学校の頃はすごく集中してそれを繰り返し読んだので、これもよく憶えていますね。

――全集のなかで、特に好きだった物語は。

原田:『赤毛のアン』を訳した村岡花子さんが選者だったので『赤毛のアン』も入っていたと思うんですが、私は今あまり見かけない『ケティ物語』というのが好きでした。ケティという女の子の一家の話です。ケティは長女なんですけれど、たくさんの女きょうだいがいて、ケティは亡くなったお母さん代わりに家事をいろいろやっている。途中で大怪我をして下半身麻痺みたいな状態になるんです。でも明るく振る舞って、怪我が治ってからは寄宿舎学校に入って、またそこでの一連の話があって…。また読み返したいなと思うんですが、探しても意外とないんです。
 他には日本の話ですが『平家物語』や、『椿説弓張月』という源為朝が主人公の話、それと中国の説話集などを繰り返し読みました。自分では選べないようなものをたくさん読めたのはよかったですね。

――先ほど『大地』を大長篇と言いましたが、『平家物語』はもっと長いのでは。子ども用のダイジェスト版とはいえ。

原田:そうですね。それもあったのか、その後、大学では国文学を専攻するんですんですけれども。
 並行して読んだことを憶えているのが、田辺聖子さん。小学校5、6年生の頃だったか、学校で第二次世界大戦の頃のことを調べて発表する授業があったんです。いろいろと本を探していたら田辺聖子さんの『欲しがりません勝つまでは』という本を見つけて。田辺さんは、生まれた時からずっと戦時中の世の中で育ったんですよね。昭和3年の生まれだったかな、生まれてまもなく満州事変があって、終戦が高校を卒業する頃。その間のことが書かれた本です。それで田辺さんを知って、他の著作もちょこちょこ読むようになりました。それと、『欲しがりません勝つまでは』のなかで『源氏物語』や『更級日記』を読まれていたので、自分も読むようになって。小学校高学年のうちに『更級日記』を読めたのはすごくよかったですね。

――え、現代語訳で、ですよね?

原田:もちろん(笑)。それも、子ども用になっているものを図書館で探したんだと思います。『更級日記』のなかで、『源氏物語』をワクワクしながら読んだという箇所があって、「ああ、昔の人も同じなんだな」と分かりました。

その2「10代の頃ショックを受けた作品」

――中学生時代はどのような読書を。

原田:「国語便覧」に載っているような、夏目漱石や太宰治といった作家の作品、いわゆる近代文学の一連を片端から読みました。そういう割と堅いものをしっかり読んでいた一方、今になって実業之日本社さんから出ていたと知ったんですが、「My Birthday」という占いの雑誌も読んでいました。その頃ヴァイオリンをやっていたんですが、その繋がりの友達が毎月買っていたので、読ませてもらっていたんです。中学生くらいの頃に、その「My Birthday」の別冊が小説を募集していたんです。名称がはっきりしないのですが、「マイバースデー小説賞」みたいなものを設けて、コバルト系というか、少女小説のようなものを募集していて。
 受賞したのは高校生から20歳くらいまでの方だったと思うんですが、それを読んで、もうショックを受けちゃって。みなさん、すごく上手なんですよ。書き慣れているというか。当時は自分が小説を書くということは全然考えていなかったんですが、こんなに年の近い、ちょっと年上くらいの方がこんなに上手な文章で、小説としてできあがったものを書くなんて、「すごい、才能のある人は違う」って思って。その時のショックがずーっと30歳くらいまで続いて、自分が小説を書こうとは全然思わなかったんですよね。「My Birthday」には太宰治さんのお嬢さんの太田治子さんもお若い作家ということでエッセイを書かれていて。それで太田さんの『空色のアルバム』だったかを読んだんですが、自分が太宰治の娘として生まれてからの一連のことが書かれてあって、それも「才能のある人ってすごいな」とショックを受けました。そういう中学生時代でした。

――では、高校時代は。

原田:高校では担任が現代文の先生で、すごくたくさん本を読んでいらっしゃる方だったんです。20代半ばの男性でしたが、机の上にわーっと本を並べているんです。その先生に村上春樹さんを教えてもらいました。机の上にあったのを借りたのかな。それでまたすごくショックを受けたというか。夏目漱石といった近代文学を読んできたし、田辺聖子さんはちょっと年上という印象でしたが、村上春樹さんは同時代のイメージで、ちょっと特異だったというか。文体も特異で衝撃的でした。それで、高校時代はほとんど村上さんの本をずっと読んでいました。ちょうど『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が出た頃かな。

――『ノルウェイの森』が1987年ですよね。

原田:そう、高校2年生の秋に『ノルウェイの森』が出たんですよ。その翌年に『ダンス・ダンス・ダンス』が出たんですよね。それまでの村上さんも人気作家でしたけれど、高校2年生の時に『ノルウェイの森』が出て、あの赤と緑のクリスマスカラーの上下巻が書店にわーっと並んで、それまでとはまったく違う注目のされ方の作家になられました。
その前に村上春樹さんと村上龍さんが対談しているのを雑誌で読んだ時に「実は今、恋愛小説をはじめて書いているんだよね」というふうにお話しされていたのを憶えていたので、すごく楽しみにしていたのが『ノルウェイの森』でした。それがガンと売れたというのも衝撃でした。

――ご自身では村上さんのどの作品が好きですか。

原田:私は『羊をめぐる冒険』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のあたりが一番好きで繰り返し読みました。実は自分の作品に一番影響を受けているのは村上春樹さんだなって自分では思っているんですけれど、誰も言ってくれないんです(笑)。一回、すばる文学賞のパーティの時の二次会か三次会の時に、酔って、「実は影響を受けているんだけれども、誰も分かってくれないし、分からないと思うんだよね」と話したら、その時一緒にいた人のなかに、今、別府大学で教えている澤西祐典さんという作家さんがいらして、それから1年くらいしてから「原田さん、『東京ロンダリング』を読んでみると確かに影響を受けていますね」と言ってくれて、ああ、分かってくれてたなって。分かってくれたのは澤西さんだけなんですけれど(笑)。普通、村上春樹さんの影響を受けていると言うと、文体とかライフスタイルとかのことになりますけど、全然そうではなくて、架空職業とか東京の孤独とかで影響を受けていますね。

――ああ、なるほど。今、文体とかアイテムとか似てたっけ? と思ってしまいました。確かに原田さんの作品には、都会で孤独を背負いながら生きていく人たちが多く登場しますね。

原田:そうなんです。それで、高校生の頃、村上春樹さんや村上龍さんが「群像」で賞を獲ってデビューされたということを知り、そこから純文学の雑誌や小説を読むようになりました。子どもの頃は雑誌のことはよく分からなかったので、そういう文芸誌があって、賞があってというのを知ったのはその時期です。
 中学3年生くらいから数学ができなくなってきて、でも全然得意だと思っていなかった国語の成績が自然とよくなってきて、それもあって村上春樹さんを読み始め、現代の作家をいろいろと読むようになったんだと思います。丸谷才一さんも『女ざかり』がわーっと話題になる前から読み始めましたね。それもたぶん、先生に借りて読んだんだと思います。サガンや丸谷さんの文体を真似して文章を書いてみたりもしていました。でも自分は小説家になるとは全然思っていなかったです。
 高校時代にも田辺聖子さんをすごく読んだんですけれど、同時に、高校から大学にかけて森瑤子さんもすごく読みました。それで思ったのは、田辺さんと森さんって大阪弁の世界と東京のお洒落な世界という一見全然違う印象なのに、同じことが書いているなってこと。いい意味で、男女の感情というのは不変ではなくどんどん変わっていく、ということを、お二人とも書かれていると思いました。今でもお二人はすごく好きな作家さんで、自分がすばる文学賞を獲った時、森瑤子さんも第2回の受賞者なので、それはちょっと縁を感じて嬉しかったです。

――ちなみに中高時代、部活などは何かされていたのですか。さきほどヴァイオリンをやっていたということでしたが。

原田:子どもの頃からずっとヴァイオリンをやっていて、小学校のはじめのうちからオーケストラに入っていました。小学生から大学生までいる、年齢差のあるオーケストラで、私もそこに大学生の頃までいました。その活動が必ず日曜日にあるんですね。なので学校での部活動は美術部に入って絵を描いたりするくらいでした。父が大学で建築を教えていて、妹は今デザイナーで、どちらかというとそういう系の家だったので、なんとなく自分も絵は一応やってはいました。でも高校時代は部活にも入らなかったんじゃないかな。学年で帰宅部は1人か2人しかいなくて、「うちの部活のマネージャーやってくれない?」って何回か誘われましたから(笑)。
 最初の頃はヴァイオリンの道に進むこともまったく考えないでもなかったんですが、「やっぱりそれも違うなあ」と思い始めて、現実的にいろんなことを見定めていった時に、国語とか国文学かなとなっていきました。でも、今もそうなんですけれど、結構漢字に弱いんです。読むことはできるんですけれど、書くのが。高校3年生の時に先生に「漢字の練習をすればもう少し成績よくなるんだから」って言われました。

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