「マカン・マラン」シリーズまもなく完結!古内一絵さん「作家の読書道」インタビュー(Web本の雑誌)

その3「映画の勉強を始める」

―さて、高校時代は。

古内:高校に入ると小説に戻ってきます。その理由は、自分は絵が下手だということに気づいたから。ギャグ漫画でなくストーリー漫画を描こうと思うと画力がついていかない。そうすると小説に戻るしかないということで、この頃にいちばんハマったのはサリンジャー。『ナイン・ストーリーズ』『ライ麦畑でつかまえて』『フラニーとゾーイー』…。『ナイン・ストーリーズ』は本当にショックでしたね。最初にお兄さんが自殺してしまうところから始まるわけですけれど。あと、子どもが自分のお父さんのことを「ユダ公」と言われて、親が「どんな意味か知ってるの」と訊いたら、「ユダコっていうのはね、空に上げるタコの一種だよ」って答える。意味が分かってないにも関わらず、ニュアンスは切実に感じ取っているというのが、すごく面白い小説だなと思いましたね。

それと、高校時代はちょっと格好つけてシリアスなものが書きたいと思って、倉橋由美子さんとかに傾倒しました。高校では文芸愛好会に入りました。水泳部に入ろうと思ったら、学校にプールがなかったんです(笑)。そこで、小説好きな子たちと一緒に小説を書き始めて、倉橋さんの影響で人の名前を「M」とか「F」とかイニシャルにしたりして。ただ、共産党の話も、意味も分からず読んでいたと思いますよ。『聖少女』とかも。あとは大江健三郎さんといった、純文学っぽいものを格好つけて、本当に分かっているのか分からないけれど、読んでいました。

―古内さんは作家になる前に映画のお仕事をされていましたけれど、その頃から映画はご覧になっていませんでしたか。

古内:うちは父が映画がすごく好きで、よく連れていってくれたんです。名画座で「禁じられた遊び」とか、「第三の男」とか、ペペ・ル・モコの「望郷」とか。

―ああ、ジャン・ギャバン演じる主役の名前がペペ・ル・モコ。

古内:あのへんのものを見て映画の学校に行きたいと思うようになって。調べていたら日大芸術学部に映画学科というのがある。でも親に言ったら学費が高すぎるからダメだって言われたんですよね。でもよく調べたら、監督コースや撮影・録音コースは学費が高いんですが、理論・評論コースは文学部と同じくらいだったんです。「ここならいいよ」と言われ、そこに入り、映画理論を学びました。

―理論って、モンタージュ論とかですか?

古内:そうですそうです。当時、登川直樹先生というすごく有名な教授がいらして、理論・評論の教授だったんです。すごく授業が面白かった。モンタージュ論からカメラ万年筆論とか、ずっと習っていくわけですね。だからこの時期になると、映画に影響された本を読むことが増えました。
私、池袋の文芸坐でアルバイトしていたので、年間名作映画を200本くらい観ていたんですね。モギリのアルバイトが終わったら、ただで観てよかったんです。みんなすごく優しくていい人ばかりで、大好きでした。

そこで大島渚監督とか鈴木清順監督とか、ATG(日本アート・シアター・ギルド)の映画とかを夢中になって観ました。タルコフスキーとかソクーロフとか。ハリウッドのものも、アメリカン・ニューシネマとかヌーヴェル・ヴァーグも。そのなかで映画化されたものの原作も読んでいたんですけれど、好きだったのは、ガルシア=マルケスの『エレンディラ』、アーヴィングの『ガープの世界』や『ホテル・ニューハンプシャー』、あとは「ブレードランナー」の原作となったフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。『高い城の男』も好きで、それで、なんと大学の有志で『ヴァリス』を自主製作したんです。あんな難解なものを(笑)。監督コースの先輩が「『ヴァリス』やるぞー」と言って、8ミリで。私は手伝っただけですが、一応役者で出ていました。最後は殺されちゃう役(笑)。

―それはどこかに残っているのでしょうか。

古内:いや、私も観た憶えがないので、完成しなかったのかもしれません。ラッシュまではいったのかもしれないけれど。

―学科を超えて仲の良い人たちがいたんですね。

古内:そうですね。映画学科の他に文芸学科の人たちも仲良くて、本も「今これが面白いよ」と教えてもらって読むことが多かったと思います。大学のそばに下宿している面倒見のいい先輩がいて、その人は自分の下宿を開放していたんですね。そこにいくと先輩はいなくても誰かが必ずいて、そこでいろいろと教えてもらうことが多かったです。ゴダールがいい悪いって論争がおきて、あまりにもゴダールを擁護した人のあだ名が「ゴダール」になったりして、面白かったですね(笑)。

―映画とは関係なく読んだものってありましたか。

古内:村上春樹さんが出てきたのがこの頃で、当然読みましたね。私が大学生時代に読んでびっくりしたのは、村上春樹さんと、『悪童日記』のアゴタ・クリストフです。『悪童日記』は『ふたりの証拠』『第三の嘘』と合わせて三部作ですが、やはり『悪童日記』は大ショックでしたね。何が好きだったかというと、登場人物が自分の倫理で動いているところ。たぶん私の根底にある、誰かが決めた倫理ではなく自分の決めた倫理で動く、ということを主人公の双子が実行していて、それが気持ちよかったんです。おばあちゃんが性格最悪で、双子が食事するのを止めている時に目の前で鳥を丸ごと焼いて食べたりしますけれど、ナチスがユダヤ人を行進させている時に、わざと林檎を彼らのほうに転がして食べさせるんですよね。それでナチスに殴られる。おばあちゃんが怪我して帰ってきた時に、双子ははじめておばあちゃんの手をとって一晩中看病する。そういうところもすごくよかった。あと、「兎っこ」って出てくるじゃないですか。

―はい、近所に住む女の子ですよね。

古内:あの兎っこも淫乱で最悪ですが、双子は「眼の見えないお母さんの面倒を見ていてお前はいい子だ」と言ってその子を守る。みんなから犬畜生と言われている子を、双子は双子の倫理で守るんですよね。そういう、筋が通っているところが好きでした。その後に出てきた『ふたりの証拠』と『第三の嘘』も小説としてすごく面白いんですけれど、そういうところがなくなっているので、やっぱり『悪童日記』がいちばん好きですね。

―村上春樹さんの作品では何が好きでしたか。

古内:私は『羊をめぐる冒険』かな。『風の歌を聴け』とか『1973年のピンボール』も読みましたけれど、『羊をめぐる冒険』から「この人はすごくエンターテインメントを書こうとしている」と感じて……と私が言うのも不遜なんですけれども、物語がバーンと広がった感じがありました。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も大好きですね。短篇も、気味悪い「納屋を焼く」とか。阪神大震災のことを書いた『神の子どもたちはみな踊る』も。エッセイでは、『走ることについて語るときに僕の語ること』には憧れましたね。ストイックで、午前中に走って午後に執筆して、夜は音楽を聴きながらご飯を食べて、という生活が。

その4「中国に留学、帰国後は映画会社へ」

―やはり卒業後は映画の方面を志望されていたと思うのですが、どういう方面を考えていたのですか。

古内:そうですね。学校では映画史を習うわけですけれど、みんな過去のことなんですね。アメリカン・ニューシネマもイタリアン・ネオレアリズモも、ヌーヴェルヴァーグも、松竹ヌーヴェルヴァーグも。リアルタイムで観ることはなかったんです。ところが、文芸坐でアルバイトをしている時についに中国の第五世代がやってくるんです。チャイニーズ・ヌーヴェルヴァーグ。チェン・カイコーやチャン・イーモウが現れて、私は大ショックを受けました。それまでは文化大革命があって、前進、前進、前進みたいな共産党っぽい映画が多かったんですけれど、そこにいきなりチャイニーズ・ヌーヴェルヴァーグと呼ばれる「新潮派」が現れた。「黄色い大地」とか「大閲兵」とか、もう今までの中国映画とガラッと違うんですよ。「あ、中国映画、今だ」と思いました。それでどうしても中国映画を勉強したくなったのですが、当時中国映画について書かれていたのは佐藤忠男さんくらいしかいなかった。じゃあ中国に行くしかないだろうと思ったら、登川直樹先生が行かせてくれたんです。「じゃあ行きなさい、単位のことは心配しなくていいよ」と。私、わりとやり始めるとそれだけしか見えなくなるので、それで半年くらい日本で中国語を勉強して、北京と上海に留学して、撮影所に取材に行くくらい頑張って、卒論は中国新潮派で書きました。

その頃、西安映画撮影所といって、新潮派の撮影をしている場所が西安にあったんですね。チャン・イーモウが「赤いコーリャン」を撮ったり、チェン・カイコーが「大閲兵」や「黄色い大地」を撮ったりしていた場所です。そこにも一人で取材に行きました。そうするとね、やっぱり、会ってくれるんです。製作所の所長だった呉天明さんとかも、日本の学生が中国語を習って訪ねてきてくれたといって、スタジオセットとかも全部見せてくれて、若手の監督を紹介してくれて。すごくいい時代でした。ところがそれから1年後に天安門事件が起きちゃうんです。

―ああ、1989年ですね。

古内:そうです。それで一気に映画が失速するんですよ。一回新潮派というのは終わってしまう。だから、すごい過渡期に留学したなと思っていて。このことは後々小説に書いていくことになると思います。当時の中国というのは今からは考えられない、民主化の百花繚乱な感じがありました。映画だけでなく芸術が新しくなって、文学でもそれこそ莫言とかが出てきた時代ですね。

―ノーベル文学賞を獲った、『赤い高粱(コーリャン)』の原作者ですね。

古内:他にも田壮壮とかが出てきていたのに。それが1年でぺしゃんとなってしまった。それを如実に見てしまったので、いずれ小説のテーマになっていくと思います。
それで、中国語がある程度話せるようになったんですが、帰国したのが4年生の夏で。本当だったらもう就職活動は間に合わなかったんですが、某老舗の映画会社がまだ募集をしていて、ギリギリ間に合いました。中国語が喋れるというのを売りに、なんとか新卒入社することができました。当時その会社は中国との合作とかもやっていたので。それで、入社してすぐに、キン・フー映画祭という、中国の黒澤と呼ばれている胡金銓(キン・フー)監督の映画祭があって、スタッフとして参加しました。

その頃は、本当に現場でバリバリやれるくらい話せるかといると、今思えば話せてなかったと思うんです。そのキン・フー監督も、中国や台湾や香港で映画は撮っているんですけれども、普段はロサンゼルスに住んでいる方で英語がペラペラだったので本当は英語の通訳でよかったんですよ。でも中国語が懐かしかったんでしょうね。私のつたない中国語を非常に愛してくれたと思います。もう亡くなられたんですけれど、映画会社勤務時代は何回もお仕事をご一緒させてもらいました。私にとっては登川先生と同じくらい、師です。

「侠女」という映画がいちばん有名で、カンヌ国際映画祭高等技術委員会グランプリを獲っています。いわゆる華麗な、踊るようなカンフーアクションをはじめてハリウッドに持っていって、剣劇ブームの元を作った人でもある。だから、アン・リーとかの師匠に当たる人ですね。心臓のバイパス手術の失敗で亡くなってしまったので、本当はもっと長く生きられたんです。亡くなる直前まで仕事させていただいたこともあり、台湾で作られたキン・フー監督の回顧映画に、私、出演しています(笑)。キン・フー映画祭のプロデューサーと、宇田川幸洋さんという映画評論家の方と、3人で。これは「時不我与 MEMORY OF KING HU」というタイトルでDVDが出ています。キン・フー監督は多才な方でエッセイもいっぱい書かれているんですが、その中にも私は結構出てきています。いずれはその翻訳もやりたいですね。絵も上手で、絵コンテなんかも本当に画家のよう。それもぜひ出したいです。

―映画会社勤務時代、読書はされていましたか。

古内:それが暗黒時代に入りましてですね。仕事関係ではない本をあまり読まなくなっていました。読むのはいわゆる「映画化するから読んで」と言われたベストセラーばかり。仕事が大変だったので趣味で読むとしても軽く読めるものが増えて、それこそ森瑤子さんなんかは読みやすいし面白かったですね。ほかには山田詠美さんや川上弘美さん。それと、映画化のために読んだのだと思いますが、高村薫さんがすごく面白かった。他の会社に取られましたけれど(笑)。

―あ、『マークスの山』ですね。

古内:そうですそうです。他は中国語のものを読んでいました。『赤い高粱』とか『芙蓉鎮』とか、莫言とか。この頃、映画で福井晴敏さんや岩井志麻子さんとお仕事させていただいていますね、福井さんの『戦国自衛隊1549』や岩井さんの『ぼっけえ、きょうてえ』のDVD化の宣伝マンとして。他にも綺羅星のようなベストセラー作家さんにもお会いして、パンフレットやDVDの特典のためのコメントをお願いしたりしていました。当時は自分が作家になるなんて思っていなかったですから、映画会社の人間としてこういう人たちと付き合っていくんだろうと思っていました。

―じゃあ、出版社の人たちとも交流があったんですね。

古内:ああ、角川書店さんとか文藝春秋さんとか、宣伝マンとして会いに行っていました。「帯にこの写真を使ってください」とか(笑)。

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