「日本語が世界の広さを内在している言葉だとは知らなかった」―角田光代訳『源氏物語 上』 発売記念インタビュー後編

前編に続き、ブクログ通信編集部『源氏物語 上』角田さんに独占インタビュー!後編では、『源氏物語』を訳す中で角田さんが感じた、日本語の面白さについて語られています。

取材・文・撮影/ブクログ通信 編集部 持田泰 大矢靖之 猿橋由佳

運命を「俯瞰」して見ている面白さ

―角田さん自身の『源氏物語』の作品の印象、あるいは作品としての魅力とはズバリなんでしょうか?

いろんな人がいて、みんな違うところを見てると思うんですね。誰しもがわたしよりも『源氏』をよく知っていますから、いろいろな魅力をいっぱい聞かされてきましたけれど、実際翻訳にとりかかってわたし一番面白く感じた点は、「運命を俯瞰して見ている」ところなんですね。一人の人間の運命というよりも、人間の宿命とか運命っていったものを、ちょっと上から見ている物語っていう点において、面白かったです。今まで源氏についてそういう物語だよって誰も教えてくれたことはなかったんですよね。あ、こんなところを逆にわたしは面白いと思うけどな、と。

―今回現代語訳するにあたっても、それは工夫としては何か影響は与えているんでしょうか?

はい。ガーッと読めるように、それこそ読みやすさという点で敬語を省いたりとか、詳しい説明注釈を省いたり、とにかくまあバーッと進めるように、っていうのが工夫と言えば工夫です。

―実際、読ませていただいて、その読みやすさが一番大きいんだと思うんですけど、何かこの、物語の浮き沈みがものすごく、率直に伝わってくる感じがしました。確かに他の訳だとその俯瞰性が分かりづらい感じはしますね。

でも、わたしの読みのほうが間違っていて、その他の方のだと、浮き沈み、運命の俯瞰という感じはしないっていうのは、たぶん誰もこの物語をそう捉えてないからだと思うんですよね。それは、そっちのほうが正しいんですよ。わたしのほうが間違った見方で。

―いろんな見方があるんだと思いますけど、一般ではあまりそこをフォーカスしてないってことなんですね。

してないんですよね。面白い点はもっと他にあるから。たとえばその「愛」と「性」の問題であったりとか、やっぱりそっちのほうが正しい面白さなんだと思うんですよね。

―なるほど。それゆえに『角田源氏』のほうのその、いわゆる「運命を俯瞰する」部分の面白さがやっぱり特徴的に、今回の上巻またこの続刊を含めて出てくるということですね。

だといいんですけどね。最初に何をやりたいと思った時に、やっぱり「俯瞰した面白さ」が出せればいいなと思って始めたんですけど、今は上巻なので、それは下巻まで行き着かないとまだなんとも言えないですね。

―下巻になると今度は源氏亡き後の世界で。

「因果応報」みたいなことが、よりクッキリよりハッキリ見えてくると思うんですよね。

『谷崎源氏』と『角田源氏』は対極にある

―わたしが「上巻」を読了した感想ですが、「俯瞰」の部分もそうなんですけども、細かい描写がクリアになっている印象を受けました。たとえば夕顔と出会う直前のシーンで、車の中から源氏が屋敷を見上げていると、少し高いところの隙間から女たちの「額」が見えていて「なんかずいぶん背の高い女たちがいっぱいいるな」ってぼんやり眺めているシーンがありましたが、とても単純で暢気な風景が描かれているんですけど、なんかその淡々とした描写がかえって「すごくリアルだ」という感じを受けました。そういう文章がいたるところにあった印象があります。再び『谷崎源氏』と比較してしまいますと、そういった文章一つで印象がガラリと変わってしまうのだなあというのをすごく思いました。

たぶん今言われた箇所は、夕顔の家の前で、源氏が車の中から初めて眺めていて、まず家の造りの説明、家の周りには「檜垣」があって「半蔀(はじとみ)」とかいう屏風みたいなものが吊り上げてあって「簾」が涼しそうにかかっていてと細かく書かれていて、その上部の隙間から女たちの「額」だけが見えるという風景ですよね。たぶんそこはわたしの小説の考え方だと、家の造りやこまごました調度品の説明と、「額が見える」ことはどっちが大事かっていったら「額が見える」方が大事なんですよね。なので、そっちを強調していくのですが、その書き方だと「半蔀」とかってなんなのかわからないじゃないですか。でも「半蔀」は見なくていいってことなんです。「額」が見えることが大事だと。たぶんわたしは今回ほぼすべての単語にたとえば「几帳(きちょう)」が何か、「御簾(みす)」が何か、「遣水(やりみず)」が何か、って説明してないんですね。ただ、そこで「何が行われたか」だけを書いています。説明をすっとばしているので、読む側もすっとばせるのではないかと思います。

―そういうことなんですね。つまり『角田源氏』だと、「ここだ」というポイントに、いわゆる「遠近法の消失点」を用意してくれるので、風景がリアルに立ちあがってくるという感じなんでしょうね。それで「あ、なんかリアルだな」ってなるのかもしれません。だからなのか『谷崎源氏』と『角田源氏』がずいぶん印象が違いすぎて、不思議な感覚になったんですね。

実際、『谷崎源氏』とわたしはたぶん対極にあって、言葉の荘厳さみたいなものを谷崎は強く駆使してると思うんですよね。これもまた、もともとの『源氏』の楽しみと言われてるんですけど、誰が誰に敬語を使っているとかを、それによって関係が見えてきて、その会話文やそのなんていうか説明文だけで上下関係が見えてくることが面白い、と。空蝉の旦那は空蝉に対して敬語で話すんですよね。へりくだってるんです。その関係も、敬語謙譲語をちゃんと入れれば面白いんですよ。谷崎はそれをできるんですよね。言葉遊びじゃなく、見事にやってる。わたしが逆にそれを全部はずして上下関係を見なくていいっていう。空蝉のほうがだんなより立場が上なんだよ、ってことを今は知らないでいいっていう書き方なので。

―そうなんですね。なるほど。

たぶん印象が大きく違うのは、至極もっともなことだと思います。

―夕顔が急逝するシーンも、『谷崎源氏』だとちょっと夢幻な世界のような夢の続きっていう感じなんですけども『角田源氏』だと、本気で怖いですね。ホラーっぽいといいますか。生霊もあまりにリアルな感じがしました。そこはたぶんそういう言葉の扱い方のなせるわざで。谷崎は古典素養からミリ単位でいろんなことをやってますけれども、角田さんはもっとストレートにぽんとぽんと進んでいくという。

そうですね。あと、わたしが捉えた世界観として、やっぱりこの小説って、「生霊」も「夢」も全部「現実」なんですよね。「夢」すら「現実」である、っていう・・・それも含めて「現実」なんだっていう世界観として、たぶん捉えているので、「生霊」があえて「生霊」チックに生々しく出てくるって気がしますよね。

―なるほど。そうですね、「葵の上」のところも何か怖いですよね。怖い『源氏』だなあと思いました。

怖いですよねえ。

日本語って、世界を表すための「言葉」でありながら「いやこんな言葉よりも世界はもっともっと豊かだよ」と教えてくれる側面を持った言葉

―講演会の最後、とても印象的だったのが、「日本語がすごいぞ」というお話なのですが、要は「日本語は、直接的にそれを表す言葉がないのに通じるぞ」と。一言で言い表せないのに「通じる」という日本語の「高文脈言語」であることの面白さ、というものをおっしゃっていて、あれは『源氏』を訳しながら新たに日本語を発見されたことでもあるかと思うんですけども、そこの感覚をもう少し教えていただけますか?

いちばん分かりやすい古語でいえば、「あはれ」ってあるじゃないですか。「あはれ」は現代語訳となるとほぼ「しみじみ」って書いてありますよね。「しみじみと胸にしみる」とか「しみじみと思う」みたいな。でもわたしは「あはれ」って言葉はあるが、それがそのまま「しみじみと」というものとは違う気がするんですよね。だけども、たとえば「もう本当に涙が出てしまうような夕焼け空だわ!」ってときに、「あはれ」って言葉を使ったら、ちょうどぴったり嵌ると思うんですよ。でもいま「あはれ」って言葉がないから使わない。でも「あの空を見て!見て!『あはれ』ってこういうことじゃない?」って言ったら全員わかる。「わかる!わかる!」って全員言うと思うんですよ。でもそれを、「今の言葉にして」っていったら「しみじみと」とは出てこないと思うんですよ。まあ「泣いちゃうような夕焼け」って変な説明にはなりえるけども、それをその気持ちを一言で言い表す言葉を、実は今持ち合わせてない。でもその共有している言葉はないんだけども、その感覚だけわかる。「染み入るような夕焼け空」の「この感じ」っていうような感覚だけはわたしたちは共有できる。ただ、言葉がない。普通は逆じゃないですか、わたしたちが思ってる言葉は、まず言葉がある。「恋」っていうものがあるから「何この気持ちのドキドキ」みたいな「あ、これ『恋』だわ」ってことに気づく。そういうものが「言葉」だと教わって生きてきて、また様々な外国語、英語とかドイツ語はそういうものなのかもしれない。でも日本語は、実は言葉がない中でも感覚だけでわたしたちはわかる。わかりあえて、その感覚に一生懸命言葉を後から付けてる。つまり「世界は言葉より豊かだ」ということを日本語が教えてくれるんです。日本語って言葉でありながら、「いやこんな言葉よりも世界はもっともっと豊かだよ」っていう側面を持った言葉だという、その矛盾が、すごく面白い。

―それは、昔の日本語のほうが豊穣で、今の日本語が貧困、という意味ともちょっと違いますよね。

あ、違いますね。

―何か、言葉がズレてるって意味でもないですね。

ないですね。たぶんね、「言葉」ができてくる時って、できる理由があると思うんですよね。例えば「面白い」って言葉もその前に「面白し」って言葉がありますよね。面が白い、明るい光景を見て目の前がぱっと開けるというのがこの言葉のなりたちだと、辞書に書かれていて、なるほどなるほどって思いますけど、「言葉」が出来てきたというのは、つまり「事象」が先にありますよね。この「面白いこと」に、「この感じ」に、「言葉」をつけよう、それが古語だと「おもしろし」になって、意味がもっと広がって、今は「面白い」になる。「おもしろし」だと、そんなふうにわりとすんなりと「面白い」まで途切れなく続いて分かりますけども、先の「あはれ」はいろいろな理由で歴史の中で途切れてしまったと思うんですよね。「あはれ」って言葉が多用されすぎて便宜上「あはれ」って使ってるだけで全部意味が違ってきちゃったりして。ただ「あはれ」って言えば、ある時までみんながわかったと思うんですよ。空が「あはれ」なのか、一人で座ってるあの人の後ろ姿が「あはれ」を誘うのか、手紙の感じが「あはれ」なのか。いく通りもの「あはれ」の感じを、みんなが感覚で共有できた。わたしが言いたいのは、その記号としての「あはれ」が今では失われていても、その感覚だけは通じるってことなんです。これは昔の言葉のほうが、豊潤だったという部分にアクセントを置くつもりもなく、感情や自然のほうが言葉をはるかに上回っていて、以前それを名指したものがあって、今はそれが名指せなくなっていても、通じる。それを日本語は教えてくれるんですね。

―それは、古語と現代語の感覚とふれあって、ちょっとしたズレがあることではなくて、もっと奥で、言葉じゃない向こう側があるぞ、ということに気づいたと。

その向こう側があることを日本語は教えてくれるんですよ。言葉より世界のほうが大きいということは分かっていたんですが、日本語がそういう世界の広さを内在している言葉だとは知らなかった。

―なるほど。深いですね。

すごく難しいですよね。

―難しいです。でもおっしゃっていることは僕にも伝わったように思いますし、昔は「あはれ」って言うけど今は名指す言葉のないこの感覚のこの感じ、で人には伝わっていくという意味も確かによくわかったと思います。
今回のインタビューで、『角田源氏』の魅力的なポイントがずいぶんくっきりしたと思います。中・下巻も期待しております。
本日はお忙しい中、ありがとうございました!

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