角田光代『源氏物語(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集)』刊行記念講演―『源氏物語』新訳について

2014年11月に古事記から刊行スタートした『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集』は、7月11日に『近現代作家集Ⅲ』が、そして9月からついに角田光代さんの現代語訳『源氏物語』が3回に渡り刊行され、シリーズの最後を飾ります。

約千年前に、紫式部によって書かれた『源氏物語』は、言わずと知れた世界最古の長編小説ですが、日本のみならず世界でも長く愛されている日本文学作品です。谷崎潤一郎、与謝野晶子、円地文子、瀬戸内寂聴によって様々に現代語訳され、それぞれボリュームの大きいシリーズ作品として何巻にもわたって出されていますが、今回は原稿用紙1300枚から1400枚分を1巻に収録することで、全3巻にまとめられることになりました。通常、現代語訳すると原稿用紙4000枚に上る大著である『源氏物語』が、3巻で全部読めるというのも今回の角田『源氏』の特徴の一つです。

さらに、原文に忠実ながらも地の文の敬語をほぼ排したことで、現代的でわかりやすく細部まで歯切れのよい自然な訳文と、角田さんならではの生き生きとした会話文、また、和歌や漢詩などのは原文では一部しか引用されていないものも、今回の『源氏物語』では全文紹介しています。全体を通して読みやすくなるよう工夫を凝らしていますが、東京大学国文科藤井克己博士に監修をしていただいた上で、角田さんが角田さんらしい訳文を展開しています。

今回、さる6月28日河出書房新社企画説明会で実施された、角田光代さんの記念講演録をお届けします。

“読みやすさ”と“感情のリンク”を目指した

2017年河出書房新社企画説明会(2017年6月28日 場所:日本出版クラブ会館)

現代語訳を引き受けたからには、何かこの物語に対して特別な思いがあるのだろう、どういった点が好きなのか、ということをよく訊かれるんですが、学生の頃に教科書に載っている一部を読んだことはありますし、成長過程でいろんなかたちで主要な部分に触れることはもちろんありましたけど、好きとも嫌いとも、何とも思ったことがないんです。

それはイコール、プレッシャーがまったくないということでもあるんです。今まで歴代の作家の方々が大勢『源氏物語』を訳してきて、そのなかに名前を連ねることについてどう思うかということも訊かれるんですけど、名を連ねる気持ちもさらさらない。なので、すごくニュートラルな気持ちでこの長い小説と向き合うことができました。

訳すにあたって一番困ったのは、どういう立ち位置でこの小説を「小説」として立ち上げていけばいいのかというアイデアが一切なかったこと。たとえば、女性たちの視点に立って書くとか、恋愛を中心に書く、性愛を中心に書く、あるいは男性の視点、光源氏という人の視点から書く……。この物語を愛している人は、「私だったらこうしたい」というところを足がかりにして訳し始めると思うんですが、私には本当にそれがない。どういった訳し方をするかというのが私にとって一番の難問でした。

私の名前が挙がった理由は何だろうと考え、私にしかできないことがちょっとでもあると考えてくださったから、私の名前が出たんだろう、と思いました。自分に求められることは何だろうと考えたときに、こんな読み方があったのか、とかこんなところに視点をとるのか、といったような新しい解釈、新しい読み解き方ではないだろう、というのが確信としてありました。

じゃあ、私に求められているものは何か。一つにはやっぱり「読みやすさ」。私の小説は、「非常に読みやすい」と言われることがあるんです。共感とかそういうことではなく、難しい言葉をあまり使っていないので、すらすらと読める。では、読みやすさというのをまず第一に考えよう、と。

その次に――これは私の感想なんですが、『源氏物語』ってダイジェスト版もいっぱいあって、それを読んだときに、何かちょっとわかりかけたような、俯瞰した面白さがあるんです。でも、全訳を最初から順に読んでいくと、それが繋がらない。俯瞰した図が見えてこない。それで考えたのは、この長い物語を俯瞰する面白さ、運命がねじれていく面白さを、読んだ人が何とか見渡すことができないか。そのためには、わかりやすくプレーンな文章で書いていったほうがいいんじゃないかというのが一つありました。

もう一つは、私の小説というのを考えてみたときに――自分ではそうは思わないんですが、本を読んだ人から「『感情』というものが非常によくわかる」とか、「言葉にされて初めて、自分のなかにそういう感情があったと知った」という声を聞くことが多いので、その感情面において、今とはまるっきり男女の関係が違う昔のお話ではなく、せめて感情の一端でも、当時の人の感情がそのまま今の私たちにも、「その感情は知っている」という風に、感情のリンクをできないかということを考えて、訳し始めました。

訳して見えてきた構成の妙と感情の書き分け

訳す前、『源氏物語』はただなんとなく、まあ恋愛の話なんだろうなということを思っていたくらいで、千年も昔に、一人の人間がここまで長い話を作ることができるわけがないのだから、話があっちへ行きこっちへ行きしているのを何とか繕っていて、辻褄の合わないところもけっこういっぱいあるんだろうな、と思っていたんです。

ところが、実際に訳し始めてみて、まずびっくりしたのが、そういうところがあまりなくて、ものすごく緻密に構成されているし、伏線が巧妙に張ってある。そして、それが見事に回収されていく。この手法、こういう小説のつくり方というのは、今も私たちがやっていることです。そんなに新しい手法、「構成の妙」を、千年も前にこんなに見事に、破綻させずにやっていた人間がいたんだという驚きがありました。

それから、実際に触れてみてびっくりしたことは、「当時の感情を現代のものと共通させたい」と思って訳し始めたんですが、実は、私が工夫しなくてもちゃんと共通していたことです。『源氏物語』には、いろんな女の人が登場しますが、どの女の人も名前をもっていなくて、部屋の名前で呼ばれたり役職で呼ばれたりする。私の考え方ですけれども、それはつまり、女が誰でもいいわけです。「女」というだけで個別化は必要なくて、その女が綺麗か、しとやかか、教養があるか、という違いだけで。名前がないイコール顔がないことだと思うんですが、彼女たちが感情によって書き分けられている。彼女たちのもつ感情、その感情の差異が名前になり顔になっている。そのことに驚きました。そしてその感情は、今の私たちでも十分わかることなんです。

書き手の容量を完全にオーバーしている小説

自分も小説を書いていて思うことなんですが、書き手が小説に対してできることは限られているんです。一生懸命考えて、資料もいっぱい調べて、本当に百パーセントの力で小説に向き合っても、小説が百パーセント以上の力を出してくれるかどうかは私のあずかり知らないところで決まる。だから、作者は、とにかく正直に、真面目に、自分の書いている小説に向き合うことしかできないんです。その後で、自分の手を離れた小説がどれほどの力をもつのかというのは、その小説が決めることなんだと、私は三十年近く書いてきて思っています。その理論を『源氏物語』に当てはめたときに、まさにこの小説は、書き手の容量を完全にオーバーしている小説だと思ったんです。書き手は百パーセントの力で書いたのかもしれない。それが作者の手を離れた瞬間に、ものすごい爆発的な力をもってしまった。それは作者の意図ではない。小説自体がものすごい立ち上がり方をしてしまったものの究極がこの小説なんじゃないかということを共感と驚きをもって思いました。

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企画説明会での講演より
(2017年6月28日 日本出版クラブ会館にて)

<了>

著者:角田光代(かくた・みつよ)さんについて

1967(昭和42)年神奈川県生れ。早稲田大学第一文学部卒業。’90(平成2)年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。’96年『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、2003年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、’05年『対岸の彼女』で直木賞、’06年「ロック母」で川端康成文学賞、’07年『八日目の蝉』で中央公論文芸賞、’11年『ツリーハウス』で伊藤整文学賞、’12年『紙の月』で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞、’14年『私のなかの彼女』で河合隼雄物語賞を受賞。現在『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 源氏物語』(全3巻)を執筆中。

角田光代さんの作品一覧

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