「挑戦できない国」だと思われている今の日本は「異常な事態」―広木大地さんブクログ大賞受賞記念インタビュー後編

広木大地さんのブクログ大賞受賞記念インタビュー、後編をお送りします。インタビュー前編では、広木さんの深い教養に基づくさまざまな知見が披露され、「新しい時代の組織」のあり方が示唆されました。後編では、実際の仕事の現場において、広木さんがどのように問題を解決されているか語られます。そして今の日本の組織がどういう状況に陥っているかという冷静な分析から、今こそ「チャレンジ」が必要であることが導かれます。後編もぜひお楽しみください。

取材・文・撮影/ブクログ通信 編集部 持田泰 吉田淳哉 猿橋由佳

1つ上のレイヤーの視点から「一個の方程式」を探索していくこと

―それでは少し視点を変えて、レクターでの具体的なお仕事のお話も伺わせてください。広木さんはどのように実際の仕事現場の問題解決を行われているのですか?

実際の仕事現場の問題ってだいたい何かがコンフリクトしているから問題となるんです。それが解決できない。解決されないから現状課題になっているんですけど、一体、何と何がコンフリクトしているのだろうかということに関しては実はあまり意識が向けられていないことが多い。

たとえば、「いついつまでに作らなきゃいけない」ということに対して、それを果たすのは経済合理である、ということは、クオリティが下がっても経済合理なのかといったら、そうではなくて、クオリティを一定に維持しながら、やっぱりバランスが必要になる。大体これがジレンマ、あるいはトリレンマになっているという状況があるはずです。

たとえば、QCD(※品質管理における 品質quality・コストcost・納期deliveryの略)というのは結局、「品質」と「コスト」と「納期」はトリレンマになっているものです。トリレンマなので3つをすべてとることはできない。本当にどれか一つだけをコミットすればいいとなるだけの話だったら簡単なんです。そこを一定の「バランス」を取らなきゃいけないという部分が難しいんです。「バランス」という言葉に対して、それぞれ認識が違う。大事にしているものがそれぞれ異なる。だから部署間や役割によって、「バランス」を取りつつ「品質」に対してコミットしていきたい人と、「バランス」を取りつつ「納期」に対してコミットしていきたい人がいる。このことから当然ながら対立構造が生まれてしまう。

でも、本来はその1つ上のレイヤーの視点には「事業が成功してほしい」というものがあるはずです。「成功してほしい」とは何かというと、「会社が存続し、利益を出し続ける」という1つの目的があるはずなんです。その目的を垣間見たときに、本当は「バランス」を決める「一つの方程式」があるはずで、これはそのお互いに「なるほど」っていう了解が可能なはずのものです。

なので、その「一つの方程式」を探索していくことこそが重要で、そこがコンフリクトしているんだから、どちらかに寄せたら対立を起こしてしまうのは当たり前だという観点に立たなきゃいけない。自分自身が経験したトラブル、いろいろな会社の中で起きているトラブルを見てきても思うところですが、本当は同じ「ビジネスを成功させる」という目的の中にいるのに、そのバランスがわからない、何がコンフリクトしているかが見えない。それによって、より発展的なアクションに至らないことで、大きなロスを生んでしまっていると思っています。

―お話をお伺いしてて胸に鋭い痛みを感じますね(笑)。そんな振る舞いをしちゃってるなと(笑)。

これはどの組織でも起きていることです(笑)。ただ、それぞれの価値観においてはそれぞれの判断こそが合理的だと思っているので、そこの「合理」を超えなきゃいけない。何が衝突しているのかを知らなきゃいけない。そういう観点を持つためには、「自分の価値観がすべてではない」ということをいったん受け止めないといけない。そして、その「自分の価値観の外側に解があるかもしれない」という理解に促していくことがメンタリングだと思っています。

経営者自身も本当はビジネスとしての成功を考えているんだけれども、QCDのトリレンマのどこに対して自分が価値観を集中してしまっているのか、自覚する必要があります。そこを気付かせてあげると、「こんな簡単なことだったんだ」「こうすればよかっただけなんだ」と、わりと早くその解が見つかるかもしれない。対立者同士が距離を取るんじゃなくて、対立しても対話して、「同じ価値観や同じ目的の下に集合が可能なんだ」「会社組織に集まってビジネスというゲームをしているんだ」ということに気付いていけば、そんなにトラブルにならないはずなんですよね。

―よく、日々の業務の中で「これはもっとやるべきだ」とか、「これはもっとこうやらないといけない」とか意見が出たりして、そうするとだんだん上のレイヤーに行って、事業理念に近いところまで話が進んで、この議論はどこで食い違ったんだろうとか、分岐点はどこだろう?て確認するような場面もよくあるのですが、今日のインタビューを伺っていて、その分岐点をたどるという行為だけではちょっと足りないなと思いました。そういうときにどういう知見を持ってくるのかっていうことを示していただいたように思います。

「やらかしてしまいがちな失敗」の原因は、その「言葉」が何のために使われたかを知らないから

―ところで、いわゆる開発手法の「アジャイル」は「経験主義」であることに対して、「ウォーターフォール」は「理性主義」である、という区切りをされていて、大変面白いなと思ったのですが、この発想は広木さんの発明ですか?

「スクラム」や「アジャイル」についての説明に「経験主義」っていう言葉はたびたび出てきます。ただ、この「経験主義」っていう言葉の詳細な説明はあまり見ないですね。「スクラムは経験主義的なプロセスです」という説明があるのですが、それはつまり「スクラムじゃないものというのは経験主義的ではない」ことを示唆しています。「これまでの開発方式が理性主義に基づいている」というようなことをわざわざ言わない。そして「経験主義」って言葉の意味をおそらく多くの人が調べずに読み飛ばしてしまっているのではないかと考えていました。

ここが結構、僕は厄介なところだなと思っていて、「心理的安全性」とか「経験主義」って言葉って日常語の組み合わせじゃないですか。漢字の字面をみたら、「おそらくこのような意味だろう」って全く聞いたことのない人でも解釈しちゃう。だけど「経験主義」っていう言葉は、リベラルアーツがある人からしてみたら、全然違う意味をもっています。「経験主義とは何か?」を理解しなければ、「スクラム」や「アジャイル」というものを理解しづらくなってしまいます。そういう雰囲気で読み飛ばしてしまうことすごくあるように感じています。

―そこでフランシス・ベーコンを召還して、その「経験主義」という1つその述語の歴史から紐解いて、「経験主義とはこれだから、それに対するのであれば、ウォーターフォールが理性主義である」という結論に至ったっていうことですね。

そうですね。「ウォーターフォール」という言葉も結構、絶妙なところがあります。「ウォーターフォール」という言葉自体が、たとえば「全日本ウォーターフォール標準化機構」みたいなのがあるわけじゃなくて(笑)、こういうものですという厳密な定義は存在しないんです。あまり知られていないことですが、「ウォーターフォール」って言葉が歴史上初めて登場するときって、実は「ウォーターフォール」に対する批判的文脈なんですね。製造業に近いプロセス、設計から試験まで後戻りしづらい製造業に近いプロセスをソフトウェアにそのまま適応しようとしている風潮に対して「ウォーターフォール」であると名前をつけて、「それはソフトウェア開発では向かないだろう」という指摘がこの言葉の初登場です。

そして厳密な「ウォーターフォール」の定義がないまま、オバケ語としてどんどん用いられて、そういう文脈の中で「アジャイル」という言葉も生まれているから、実はどちらもオバケ的な言葉なんです。「アジャイル」も「アジャイル開発宣言」以外において、「アジャイルというプロセスの定義はこれである」という承認団体がいるわけでなく、「宣言」が基本的な中心になっています。「宣言」をよく読むと、「〜〜ではない。」「〜〜は重視しない」とアンチテーゼ的に書かれている。本来そこから、止揚したものが、「アジャイル」なのだと示唆しています。

―なるほど。「資本主義」というものに似てますね。資本主義が最初にあるわけじゃないけど、資本主義批判の文脈ででてきたと。広木さんはそういう、人が読み飛ばしてしまったり、書き飛ばしてしまったりするようなところが気になっていて、それに対する説明を自分の中で理論づけられてきた。

そうですね。新しい手法、新しいフレームワークでもそうだし、なんでもそうなんですけども、突然覚えたことを使ってみたくなる人たちっていると思うんですね。そういう人たちが「やらかしてしまいがちな失敗」ってその言葉が生まれた背景を知らない、何のためにそれが使われたかっていうのを知らないからというのも原因だと思うんです。

だから、僕は疑り深いんですかね(笑)。「新しい手法」が出てきたら、それは、何かの問題解決のために出てきたはずです。それを僕がよく理解したいと思ったら、手法の方ではなくてその問題の方を理解するところから始めるんです。

たとえば、「3C分析」というフレームワークがあります。「3つのC(※Customer「市場・顧客」・Competitor「競合」・Company「自社」)を順番に今の状況を書きましょう」っていうことですね。これって最終的に「自分たちが勝てる物語」を紡ぐために「3C分析」は使われます。ただ3つの条件をプロットするだけだったら、単なる「箱」や「器」ですよね。そうじゃなくて、「自分たちはなぜ勝てるのか?」っていうストーリーをそれぞれ「顧客」と「競合」と「自社」で見ていけば、「あ、だからそういうことだったんだ」というふうなことが出てくるはず、と。

このように「勝てる物語作り」のためにあるのが、この「3C分析」のフレームワークの目的なのだとしたら、アウトプットはその「勝てる物語作り」じゃないといけない。そういうことは、たぶん「3C分析」を紹介する本の中の説明のところにちゃんと書いてあると思うんですよ。だけど、「3つのCにフレーズを当てはめることが3C分析です」って覚えて帰ってしまうと「とりあえず並べて書いてみましたが、だからなんなの?」ってことにしかならない。

その問題理解と「インプット」と「アウトプット」を見ていくっていうのはプログラムでも一緒です。新しいライブラリが出てきたときに、何を「インプット」として何を「アウトプット」してくれるものなのかということを理解するということは、エンジニアからすると当たり前のものの見方なんです。

なので、何が問題として「インプット」されて、「アウトプット」として何が出てくるから自分たちはハッピーなんでしたっけ?という心構えで「新しい知識」を見なきゃいけない。だけど、「新しい」ってだけで、カッコよく見えるじゃないですか。そういう態度を「クールエイド」(※「誰かの思想信条を無批判に受け入れる」ことを指す隠語)って言葉を使って本の中で批判しましたが、「新しいもの」に無批判に受け入れて猛進してしまうことっていうのを、どうやって防ぐ思考を持つかは、とても重要だと考えています。

そこをちゃんと熟考し吟味していくと、実は問題の設定と解決策っていうのにはパターンがあって、それはそんなに多くない諸原理によって支えられていることが見えてくる。

日本という国が「挑戦できない国」だと思われていることは異常な事態

―なるほど。問題設定を理解して、その解決方法も吟味を重ねていけば、自ずとだいたいの原理のパターン分けができるということですね。やっぱり単なる技術論や言葉遊びでやってしまうと結局問題が先送られるだけでなにも変わらないということがよく仕事上でも起きますね。本質的なものの見方が必要であると。

その一方で、「新しいものを全く受け付けない」という態度も多く見ます。これは「新しいものを盲信する」ことと双子の関係にある問題だと思っています。自分たちの今までのありかたにアイデンティティを投影してしまい、新しいものを受け付けないこと態度も、どちらも「新しいもの」に踊らされていることです。「本質的なものの見方」をするために問題解決から手綱を離さないことが重要です。そのためには「それは何ですか?」という問いを持ち続けることが何よりも大事です。

僕は自分が知っている・わかっていると思う概念でも、人から聞くときは「それは何を意味していて、そのことで、どうして問題解決になると思うのか?」と聞くようにしています。そうやって「それは何ですか?」っていうことを、出てくるバズワード、バズワードに問い続けた。その問いの積み重ねこそが、この本になっていったっていう感じです。

―今の部分で、バズワードに飛びつきがちなのが日本のIT業界ですけれど、「アジャイル」に至るまでの技術史とまた思想史の部分でも振り返ったときに、この「日本が日本的趣向を取り戻すための旅」でもあるっていうことを書かれていたじゃないですか。勉強不足で申し訳ないところですが、これらの手法はてっきり輸入品なのかと思っておりました。

たびたび日本がルーツであることは言及されています。というのも、それこそ「アジャイル」や「スクラム」「リーンスタートアップ」それぞれ、もともと「トヨタウェイ」からきている話であったり。「スクラム」の参照点としては「トヨタウェイ」の他にも、野中郁二郎とかが連綿たるものとして流れています。スクラムという手法の開発者(ジェフ・サザーランド)自身がそう言っています。例えば、スクラムの人はQuoraというQ&Aサイトの質問「スクラムガイドに書いてない場合どうしたらいいのか」という趣旨の質問に対して、「『ザ・トヨタウェイ』を読んどこうよ」みたいな回答していますね。

―なるほど。日本がルーツであることを誇ってもいいのですね。

90年代思想史・産業史から見える日本への憧憬の異常性も同時にあります。その頃って日本の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代で、アメリカ産業界が日本から学んでいこうとしていた過程があって、そういうことが当たり前のように取りざたされていた時代だったんですね。今だと「そんなのないだろ(笑)」って思っちゃうようなことがたくさん書いてあったりもします。

でも、その時代に本を読んでいた感覚と違って、今は日本人自身は日本のことなんか賞賛したら逆に恥ずかしいという感覚ではないでしょうか。自国のあり方をほめすぎるのもの、自国のあり方を悪く言い過ぎるのも、二極のどっちに振り切ってしまうのはおかしいと思います。淡々と事実関係を追っていくように努めました。

例えば、日本の製造業を支えたデミングの品質管理生産性向上の手法は、そもそもアメリカからやってきたものです。それが日本によって育まれて発展して「トヨタウェイ」になった。それがアメリカへ逆輸入されてソフトウェアで「スクラム」として使われるようになり、それが今また日本に逆輸入されてきているという状況です、と。そういう相互関係の中にあるんですよっていうファクトをちゃんと見せていきたかった。

―日本すごいアメリカすごいという両極端な話でもないと。

そうです。それってもともとは「科学とはなにか」っていうだけの話なんです。エンジニアリングの基本は「実験」と「誤差」との付き合い方を知ることです。それは工学部に行ったら初年度の教養として学ぶものです。つまり、そこがエンジニアリングのエッセンスなんです。それを僕の言葉でまとめると、「不確実性と向き合う」という思想なんだと言えます。

ここに先ほどの戦後経済の歴史を持ってみてみると、単純に「日本がエンジニアリングできてた時代」と「アメリカがエンジニアリングできてた時代」があって、今、日本はエンジニアリングできなくなった。それは、ソフトウェアだからではなく、全部含めてエンジニアリングできなくなったんですね。「不確実性に向き合う」という思想風土が欠損してしまって。失われてしまった。だからそれをもう1回取り戻したい。「日本すごい」でも、「アメリカすごい」でもない、かつて持っていたはずのものを取り戻そうじゃないかと考えたんです。

―デミングさんの話でいくと、今でもたぶん製造業の現場だと、そこに端を発する現場改善活動っていうのを脈々とやってるかなとは思うんですが、そこから変化があったということなんですかね。昔はそれで回っていたけれども、今は同じことをやってるんじゃおそらくダメだと。

そうですね。どんなものでもミニマムな改善を繰り返していく方式だと、局所最適解っていうか、近場の最適解のところに収束してしまう。おそらく製造業全般のビジネスを見たときに、コストコントロールのために需要に対して素早く応答することができるようになると、かなりの精度でコストを最適化できるので、競争力が高まる。そうすると、小さな成功体験しか企業が経験しなくなるため、チャレンジして失敗するよりも手短な成功を追いかけるようになる。

でも、時代が進むと競争のルール自体が変わるようになってくる。コストコントロールという不確実性よりも、市場のルール変更のほうが不確実性が大きくなってしまった。そのなかで、小さなインクリメンタルな改善を繰り返していっても、事業成長自体がサチって(※飽和して)しまうんですね。

でもサチってきたときに、本来は戦略目標自体の見直しをしないといけない。「ダブルループ学習」でも出てきたことですが、現場で起きている状況を察知して、その状況をちゃんと意味づけして、戦略目標自体の書き換える必要がある。それができなかったのが太平洋戦争における旧日本軍で、できたのがアメリカ軍だった。それが局所的な戦闘においても、最終的な戦果の影響を与えていった。まさにこれは『失敗の本質』の論旨だと考えています。

それと同じことが今、製造業に起きている。部分最適なPDCAができてしまっているがゆえに、「大きな仮説検証を小さくたくさん繰り返す」っていうものが動かなくなってきてしまっている。なので、イケイケドンドンのときはどんどん新規投資し、新しいことを挑戦し、失敗してもいろんなことをやっていくっていうことが起きていたのだけど、信用が収縮していったことによってチャレンジ数が絶対的に減ってしまい、インクリメンタルな改善だけが生き残ってしまっている。

それは旧日本軍がジリ貧になっていった状況と一緒です。当初与えられた戦略目標に対して、愚直に守り続けようとするがためにジリ貧になっていくっていう現象が、おそらく日本製造業のうまくいってない現場に起こっている。どうやって戦略目標自体を書き換えるのかっていう時代になっている。

こういう事態がなんで起きてしまっているかっていうことが問題の本質かなと思っているんです。インクリメンタルの改善をした成功体験をした層が、破壊的な挑戦をした経験がないままその企業のトップにきてしまっている。なので、破壊的なビジネスモデルの変換をして仮説検証しないといけない局面での成功体験がないので、失敗しそうなことをしないんですね。手前にインクリメンタルに数パーセントの利益を上げる方法も見えていたら、それで成果が出てきてしまったので、「挑戦しない人たち」が経営層に上がっていくことになったのかなあと思っています。

―難しいテーマですね。成果が上がっていってもサチってしまう必然の流れがある。ただ根拠立てた仕事をやろうとすると、やっぱりインクリメンタルな態度の方が重んじられる。この本の中にはそこを乗り越えて変換、変化をしていくことが重要だと書かれていたと思うんですが、そこに切り替えるきっかけというか、そういうのをどうやったらいいのかなとちょっと悩ましいところだなと普段から思っています。組織自体もそこで変換していなかいといけないっていうことを気づくために、どうしたらいいのかなと。

挑戦って誰も求めてないんだったらやらないと思うんです。ですので、ちゃんとマーケットから期待を得て、経営者がちゃんと動いて、イノベーションの比率を増やしていくしかないと思います。今、少し経済が回るようになってきて、少しずつチャレンジするマインドが戻ってきていると思ってはいます。この10年~20年景気が停滞しているぐらいで、あんなにチャレンジングに自己発展を繰り返してきた日本という国が、「挑戦できない国」だと思われている。これは「異常な事態」だと思っています。

国民の気質や文化によるものは当然あるんですけど、この現象は傍流の日本文化論で議論する話ではない。かつては、持っていたはずのものなのに、自分たちでそのマインドセットを閉じてしまっていることに気づく必要がある。若い人たちにとってみればチャレンジしていくことは当たり前なことなんです。でもそれが閉ざされて、思考からスポイルされている。20年成長できていないということ自体が、世界的に異常な状況なんだっていうことに皆が気づければ、もう少し日本もよくなるんじゃないかなって思います。

―本日はありがとうございました。次作も期待しております!


いかがだったでしょうか。是非ご本も手に取ってみてください。また、今回、第6回ブクログ大賞ビジネス書部門受賞記念として広木大地さん『エンジニアリング組織論への招待』の貴重なサイン本を5名様へプレゼントいたします!ふるってのご応募お待ちしております!

広木大地さんの貴重なサインをいただきました!

広木大地(ひろき・だいち)さんについて

株式会社レクター取締役。2008年度、新卒第1期として株式会社ミクシィに入社。同社メディア統括部部長、開発部部長、サービス本部長執行役員などを歴任。2015年同社を退社し、現在は技術組織顧問として複数社のCTO支援を行なっている。2018年2月22日に『エンジニアリング組織論への招待~不確実性に向き合う思考と組織のリファクタリング』を刊行、第6回ブクログ大賞を受賞。

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広木大地 Qiita 

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