『ゲンロン0』とは「大きな間違い」?―東浩紀さん『ゲンロン0 観光客の哲学』ブクログ大賞受賞インタビュー中編

前編に続き、東浩紀さん『ゲンロン0 観光客の哲学』ブクログ大賞受賞記念インタビュー中編です。
前編後半の「間違えるし、いい加減な存在だからこそ『公共性』を作る」という「観光客の哲学」のメインモチーフのお話から中編では第2部「家族の哲学」について掘り下げ、『ゲンロン0』が出たことは「大きな間違い」だった(?!)ことなど、さまざまにお伺いしています。

取材・文・撮影/ブクログ通信 編集部 持田泰 大矢靖之 猿橋由佳

『地下室の手記』の主人公がどうやって大人になるか

ゲンロン本社にて東浩紀さんからさまざまなお話をお伺いしました!

―「観光客」も、いい加減で当事者でもなく、フラッときてフラッといなくなっちゃって、責任も持っているんだかなんだかわからないような人だったと思いますが、「家族の哲学」中で展開される「父親」像も、明るい家族の未来を支える「大黒柱」的な家父長のイメージからはほど遠いものですよね。そのドストエフスキーの「すべてハッピーな、すべてがハーモニーになるような世界なんて俺はノーサンキューだ」という「地下室の住人」の成長系としての「父」であり、「不能」として立つ「父」ですね。

そうですね。実際いわゆる保守論壇が言っているような「父」の姿っていうのは、あれこそフィクションなのであって、人はなんとなくいい加減に「父」になっていき、いい加減に死んでいく、と。そういう姿こそが私たちのリアリティなのであって、そしてその姿を拒否するべきではないのだ、ということですね。

だからあの最後のドストエフスキー論もとても変わった文章で、あれはドストエフスキー読解というものでもない。つまりドストエフスキーの「書いていない小説」について書いているので。「ドストエフスキーの作品を思想的な可能性において読めば、こういうふうに読めないこともない」っていう変わった文章なんです。あれは一言でいうと「『地下室の手記』の主人公がどうやって大人になるか」という議論ですよね。

―そうですよね。

あれはつまり僕自身の実存の問題でもあるわけです。そしてそれが現代社会の問題でもあって、私たちの社会というのは社会性というのを拒絶して引きこもったオタクたちが非常に多い時代ですね。そういうオタクたちがある種のニセモノでもいいからどうやって社会性をもう一回獲得していくのかと。

そういうような問題意識っていうのが最後書かれているということですね。だからそこの部分は若い人たちに読んでほしいなって思います。

―「成熟せよ」というより、もっと即物的に「父になれ」ってことですよね。

そうですね。「成熟する」というのは、自分の内面が変わるみたいな感じですけど、「父になる」というのは、ある意味で外側から押しつけてくるものであって、最後のアリョーシャというのは、アリョーシャ自体がそんなに覚悟がないにもかかわらず、なんとなく周りからこう奉られて、「父」のポジションに押しやられてしまうわけですよね。しかし歳を取るというのはそういうことでもあるので、それを引き受けたまえ、という感じです。

―僕ももうすでに父親なので、非常によくわかる父親のイメージです。この『ゲンロン0』の前の『弱いつながり』でも、家族に対して圧倒的な受身で成立してしまう「父」の像を書いていましたが、そんな風に圧倒的な受身で成立する「父」になってしまった感覚は非常に分かりやすいといいますか、現実味があるんですね。

まあそういうことでいうと僕は、「イクメン」とかあの手の議論が極めて苦手でして。

―なるほど(笑)

あんなハードルを掲げたらほとんど人は結婚できませんよね。単純に言うと。だから今の時代はとかくハードルが高すぎると思いますね。男性に対しても、女性に対しても。男性には働きながら子育ても全力でがんばる「イクメン」。女性に対しては子育てしながら輝いて職場でも「自己実現」みたいな。できるわけがない。

―そうですね(笑)

僕は「父」とか「母」とかになる、というのはそういうようなものではないと思いますよ。もちろん育児放棄とか児童虐待というのは個別に対応するべきことですけども、やっぱり「良い父」にならねばならない「良い母」にならねばならない、って言ってなるものではない。

その受身感というか、まさにその人間のありかたとして、「偶然」とか「考えもしないんだけどやってしまった」ということをもっとポジティブに見ていくべきだと。

まあ僕の本は、というか僕の哲学は、全体的にそういうメッセージです。

間違えないと人は人として存在しえない

―東さんは、ほかの座談でも、ハイデガーの「死へ臨む存在」としての「死の哲学」ではなく、この本は「生殖の哲学」だということも話されていましたが、確かに「生殖」は偶然に左右され、圧倒的に受身で押し流されていますよね。僕らは自分の下半身すらコントロールできない態で生きていますから。一方「死」は、ロマンティズムの陶酔の中で、カミカゼのような選択肢すら選べることになるのだろうと思うのですが、それとはまったく違う、僕らの生きている背丈の中で押し出されているような「生活感情の哲学」を感じます。

そうです。だからやっぱり僕は、ロマン主義があんまり好きじゃないんですよね。ロマンティックに生きる、格好をつけたナルシスティックな人たちが(笑)。僕の哲学というのはだからその真逆の位置です。こう言うとあれですけど、日本でやっぱり哲学や文学やっている人たちの多くはナルシストでロマンチストだと思います。

―そうですよね。

僕はやっぱり人間の資質として違うんですよね。それは正しいとか正しくない以前に、なんか「人格」として違うというか。正直に言えば、僕はわからないんですよ。その彼らの感覚が。だから、僕の文章がちょっと変わっていると見えるのは、たぶんそういう人格的なところが結構大きいのかなと思います。「唯一の死に向かって自分を投企し、それで自分の人生を設計してく」なんてのは、ちょっと僕はよく分からないですね(笑)。何を言っているか分からないって感じですね、生の実感として。

―それは近代主義的にではなく、明らかにポストモダンな現代においてはプラグマティックに生きる作法を勧めたいみたいなことでもありますか?

まあこれは、モダンかポストモダンかっていうよりも、ストレートに人格類型なところがあると思いますね。死のロマンティズムが好きな人は、今もいるし、百年前にもいるし、百年後にもいるんだと思います。そういう人たちはもしかしたら僕の言っていることは永遠に分からないのかもしれない。ただまあ「哲学」はその人たちだけのものじゃないから、僕のような感覚を持っている人たちに合う「哲学」があってもいいと思うんですよね。

それはつまり、僕の基本的な発想では「人生とはほとんど何の意味もなく、一人一人ほとんど何のコミュニケーションもできない」というものです。だから、もし意味とかコミュニケーションがあるとするならば、それは「錯覚」としてしか存在しないわけですね。それが僕の「哲学」です。だから「生きる意味」なんてないんですよ。それに「死の意味」なんてものもなくて。たとえばこうやってインタビューしていても明日にでも交通事故で死ぬのかもしれないし、すべては断ち切られるだけなんですね。

そういう中で、人は「意味」みたいなものを探してしまうんだけど、それは全部実は「錯覚」なんだけど「錯覚だからこそ素晴らしい」という感覚です。僕は。だから「愛」とか「正義」とかも実在しないんですよ。それを実在すると我々は「錯覚」してしまい、「錯覚」するということが人間が人間たるゆえんなんですが、しかしそれ自体を求めてもそれはどこにも存在しないんですよ。

―それはまた『弱いつながり』でも「弱いつながりだからこそ強い」という表現をされていたと思うんですけども、ようは「錯覚であるからこそ尊い」と。

「錯覚」としてしか存在しないものってこの世界にいっぱいあるわけです。だから僕は今の世界を覆っているエビデンス主義みたいなものが非常に嫌いです。例えば「愛」の存在とかはエビデンスはないんですよね。でもまあいわゆる不倫とかDVとかってのが世の中で話題になって、通俗的な言説を見ると「愛」にも物証があるかのような(笑)議論がされているわけですが、本当は「愛」なんてのはどこにも存在しなくって、その瞬間「愛している」としか思ってない。「愛」とかなんにもないわけですよ。たとえば我々はそれをある「かのように」行動していて、その限りでそれは存在するものなんですよね。そういうこの世界には本当は全然存在しない、エビデンスもないんだけど、それが存在する「かのように」みんなが考えているものって実はいっぱいあるんですよね。そういうものについて、そういうものの重要性についても、書いているつもりなんです。

―別の座談でも、東さんは「動物を家族と思ってしまう錯覚」を議論されていたと思うんですけど、その中で「動物の子どもが可愛い」という感覚は、僕らが哺乳類として持ってしまっている生物学的な「錯覚」なんだよという話をされていたと思うんですけど、それはさっきのローティの「憐み」「やさしさ」の部分も、その即物的な「誤作動」だっていう認識を示されていましたよね。

そうだと思います。こう、やっぱ人間のその「誤作動」がなければ社会もなければ人間もないんですよ。だからその合理的に人間が行動すると考えれば、人間は人を助けないべきだし、もっといろんなことがなくていいんですよね。でも人間ってのはいろいろ間違ってしまうもので、その間違ってしまうことこそが社会を作っているんだ、という認識で僕はいるわけです。だから人は間違うことを恐れるべきではない。ていうか「間違えないと人は人として存在しえない」という考えです。

『ゲンロン0』は『ゲンロン1』から『ゲンロン4』までがあるからこそ出せた本。だからこれは『ゲンロン』の「原理」

―そもそも『ゲンロン0』自体、本来2015年に出るべきだったものが2017年に別の形で出たって意味では。

そうそう、大きな「間違い」です。

―本来ですと順番的にいえば『ゲンロン5』にあたるタイミングでの刊行だけれど、これまたあえて『ゲンロン0』とした。さっき言われた「事後的」な意味でもあると。

そう、これはかなり「事後的」に作られている本です。『ゲンロン1』から『ゲンロン4』までがあるからこそ出せた本です。だからこれは『ゲンロン』の「原理」みたいにして書かれているんですが、それも1から4まで作られているので、逆に書けたところはありますね。

―その点で、また僕の感想ですが、デビュー作『ソルジェニーツィン試論』から一貫して変わらないテーマを追っている東さんがいる、と思ったんですけども、そう思わせるのも『ゲンロン0』が出たから、そう思えてしまうってことですよね。例えば将棋で駒をここに指したことで、随分前のあっちで動いた駒が効いていることがわかった、かのような。

そうです。これは大事なことで、よくデビュー作にあのすべてがあるっていうんですが、あれは完全に錯覚で、そのあといろんな仕事をしてきて、そこからの視点で見るから全部がそこにあるように見えるってだけなんですよね。

逆に言うと、結局クリエイターや物書きの仕事なんていうものは、一生かけてそのデビュー作が輝くように文脈を捏造し続ける、というようなものであって。結局いろんな仕事をバラバラとやっていたら、デビュー作なんて誰も読まないし、それを振り返られることもなくなっちゃいますよね。それを振り返られる文脈をどう作っていくかってことで、つまり「事後的」にずっと意味を作り続けるような仕事でもある。だから、そういう「批評とは何か」とか、「一体そもそも僕はものを書いて何をやっているんだろう?」というような自問も、先ほど言った「時間性」の問題にやっぱり関係していますね。

―今のお話で納得するところが、「事後的」に何かの意味を成立させる活動こそ「批評」そのものですよね。ルソーの今の解釈だってそのまままったく関係ない議論として論じることだって可能でも、ルソーをああいう形で解釈することで「事後的」にルソーが効いてくる。

そうです。それは、いわゆる「文系」と「理系」って言い方はあまりしたくないけど、その自然科学と、人文学問の違いは、そこですね。人文というのはやっぱり、「事後的」に意味を、本来は存在しないものを作り出す行為なんですよね。一方で自然科学ってやっぱり目の前に対象があるんですよね。モノは実際に物理世界にある。でも言語によって作られてきた領域はモノのようには存在しないので、それをずっと作り続けなきゃならないんですよね。それが「文化」の本質であり、そのまま「哲学」とか「芸術」の本質だと思います。それはある種エビデンス主義者からしたら「何やっているんだ」と映ることもある。

―『ゲンロン』1、2、4で日本の「批評史」を振り返っていますが、かつて同じ形式で座談をした、柄谷行人さんと浅田彰さんの『批評空間』のある種の継承として、「事後的」に文脈を作り続けていく感じなのでしょうか。

まあそうですね、この本自体が、ぼくの今までの仕事の集大成みたいに作っているので。それ自体もひとつの捏造といえば捏造なんですね。「事後的」に振り返るとこう見えるよってことです。

ただもう少しポジティブに言うと、なんていうのかな、僕自身がこういうものを書いて一回コンテクストをまとめないと、今あんまりこういう言い方しないけど、ハードディスクのデフラグみたいなもんで、断片化が激しすぎて一回デフラグをしてまとめないと、ちょっと先に進むのが難しいっていうのがあったんですよね。

だからこの本があると、僕自身がこれからの仕事をすごくしやすいんですよ。そういう意味では、僕が僕自身のために書いた本でもある。

―タイトルにこの『ゲンロン0』の文字がないまま『観光客の哲学』という単著として、どこか大手出版社から出せたにも関わらず、このような『ゲンロン0』という形で踏み込んだのもそういうことですか。

いや、『ゲンロン0』は必ず会員に送らないとダメだったんです。だから雑誌形式にするしかなかった。それに、そもそもですね、これこんなに売れると思っていなかったので(笑)。だから、作ってしばらくしたら単行本にするんだって案もあったんですよね。でもなんか売れちゃったし、これで書評とかも出ちゃったし、単行本にすることにも意味がないので、もうこのままでいきますか、と(笑)。

これは、『ゲンロン』創刊号をいろんな人に送ると約束していたので、その約束を果たすために書いた本でもあるんです。だから『ゲンロン0』でなければいけなかった。

―なるほど。一つの「アリバイ作り」的に「ゲンロン0」を出せたことで、これがあらゆる方面に対して、未来も過去も含めた大きな見取り図の中の重要なスペースにポイントが打てた、と。

そう思っています。


この続きはインタビュー後編で!後編では、東浩紀さんが2010年合同会社コンテクチュアズを興してから現在の株式会社ゲンロンに至るまで、ご自身の変化に富んだ「人生」ついてお伺いしています。東さんが率直に語ってくれた「中小企業のリアリティ」とは?乞うご期待!

ゲンロン0 観光客の哲学

著者 : 東浩紀

株式会社ゲンロン

発売日 : 2017年4月8日

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